山村修著「花のほかには松ばかり」(檜書店)を読んでから、しばらくして、思い浮かんだ文がありました。それは、司馬遼太郎の「六三郎(ろくさぶろう)の婚礼」という6ページほどのエッセイ。
その連想のきっかけは、
山村修氏の本の中のこんな言葉でした。
それは、謡曲「松虫」を語りながら、山村氏の感想を述べている箇所。
「この『松虫』について語られるとき、キーワードのようにきまって出てくることばがあります。同性愛ないし男色です。私にはそれが気に入りません。
・・・たがいに友情を抱いた青年同士が死んだからといって、いちいちそうした文化的な価値づけをすることが厭なのです。余分な意味、余分な価値をまとわせるのが厭なのです。
とくに、先に逝ったほうの友の死にかたをみてください。この『死』には、じつに、およそ意味というものがない。・・どんなわけで死んでしまったのか。まったく書かれていない。・・・
その水のように透明な青年が、鳴く虫はどこにいるのか・・歩き、心が尽きて草の上に空しくなった。その死は、いわば死の芯をなす死です。・・価値という価値をぎりぎりまでこそげおとした死です。」
ちょうど秋の題材にした謡曲ですが、
山村修氏は「私がことのほか好きな作品の一つです」とあります。
そして曲のラストも引用してありました。
さらば友人名残(なごり)の袖を 招く尾花(おばな)の
ほのかに見えし跡絶えて 草茫々たる朝(あした)の原に
草茫々たる朝の原に
虫の音ばかりや残るらん
虫の音ばかりや残るらん
この山村修氏の本はというと、25曲の謡曲を1曲ごとに短く紹介してゆくのが本文です。
さらりとして、とりたてて気持ちを高ぶらせての紹介しているわけでもないので、
読むこちらとしても、さらりとした読後感を持ちました。
そして、しばらくしてから、私は司馬さんの文を思い浮べたというわけです。
その「六三郎の婚礼」は江戸時代後期・六三郎の結婚式を取り上げたものでした。
長兄が家長となる江戸期の、六人の子のうち、男でかぞえて三番目の弟です。
司馬さんはその相続権のない弟ぶりを、「厄介(やっかい)」と江戸期の正式の法制用語を取り出して語っております。
「六三郎のような『厄介』は、他家の養子になるか、学問か技芸を身につけて世を送らねばならない。」けれども
「みなことわられた。ついには、能役者の養子にどうかということで、三ヵ月間、汐見坂の家から両国山伏井戸に住む梅若某の家まで毎日謡(うたい)の稽古に通ったこともあったが、のどに力がなくて沙汰やみになった。
やがて医者になろうとし、蘭学と漢学とのそれぞれの塾に通い、根気よく習学した。結局、医者にはならなかったが、幕府に語学力を買われ、二十四歳のとき、役につき、厄介と書生であることの境涯から脱することができた。」
この単行本にして6ページほどの文を全部引用したくなるのですが、
ここでは端折って、婚儀にうつります。
「山内六三郎の婚儀の場合にいたっては、媒人(なこうど)さえ立てず、また席上、盃事(さかずきごと)をさせる待上臈(まちじょうろう)の役は、姉がつとめた。小気味いいほどの簡潔さである。」
原文は
「之れなん、予が将来苦楽を共にすべき妻女か。顔見たし、など思ふ間に、姉上の御酌にて三々九度は済みたり。」
そして、酒宴の様子を語ります。
「披露の酒宴は農村などの場合、三日もつづくことがあるが、右のような江戸の標準的な知識階級の場合、しつこいものではなかった。
酒間、謡並仕舞もありき。高砂・猩々(しょうじょう)の類なりしならん。
とあっさりしたものである。さらには、席上、人数もごくわずかなものであった。
唐突だが、こんにち流行している無用に贅沢な・・しかも産業化した・・婚礼のなかにまぎれこんだりするとき、六三郎の時代のほうが民度が高かったのではないかと思ってしまう。」
このあと司馬さんは、余談のようにしてチュー政権下のヴェトナムのサイゴンの様子を語るのでした。
山村修氏の本の読後感として、私は「六三郎の時代の民度」を連想したというわけです。ちなみにこれは新潮社「司馬遼太郎が考えたこと ⑪」にあります。いまは新潮文庫も出ておりまして手に入りやすいので、短い全文を読むのも参考になるかと思います。
「酒間、謡並仕舞もありき。高砂・猩々(しょうじょう)の類なりしならん」
ほかならぬ、その謡曲を現代人のために紹介しているのが、今度でたばかりの山村修著「花のほかには松ばかり」なのです。門外漢の私には、たいへんよい入門書になっております。日本の民度というのは、こうして高めるのだという見本のような入門書になっていると思うわけです。
その連想のきっかけは、
山村修氏の本の中のこんな言葉でした。
それは、謡曲「松虫」を語りながら、山村氏の感想を述べている箇所。
「この『松虫』について語られるとき、キーワードのようにきまって出てくることばがあります。同性愛ないし男色です。私にはそれが気に入りません。
・・・たがいに友情を抱いた青年同士が死んだからといって、いちいちそうした文化的な価値づけをすることが厭なのです。余分な意味、余分な価値をまとわせるのが厭なのです。
とくに、先に逝ったほうの友の死にかたをみてください。この『死』には、じつに、およそ意味というものがない。・・どんなわけで死んでしまったのか。まったく書かれていない。・・・
その水のように透明な青年が、鳴く虫はどこにいるのか・・歩き、心が尽きて草の上に空しくなった。その死は、いわば死の芯をなす死です。・・価値という価値をぎりぎりまでこそげおとした死です。」
ちょうど秋の題材にした謡曲ですが、
山村修氏は「私がことのほか好きな作品の一つです」とあります。
そして曲のラストも引用してありました。
さらば友人名残(なごり)の袖を 招く尾花(おばな)の
ほのかに見えし跡絶えて 草茫々たる朝(あした)の原に
草茫々たる朝の原に
虫の音ばかりや残るらん
虫の音ばかりや残るらん
この山村修氏の本はというと、25曲の謡曲を1曲ごとに短く紹介してゆくのが本文です。
さらりとして、とりたてて気持ちを高ぶらせての紹介しているわけでもないので、
読むこちらとしても、さらりとした読後感を持ちました。
そして、しばらくしてから、私は司馬さんの文を思い浮べたというわけです。
その「六三郎の婚礼」は江戸時代後期・六三郎の結婚式を取り上げたものでした。
長兄が家長となる江戸期の、六人の子のうち、男でかぞえて三番目の弟です。
司馬さんはその相続権のない弟ぶりを、「厄介(やっかい)」と江戸期の正式の法制用語を取り出して語っております。
「六三郎のような『厄介』は、他家の養子になるか、学問か技芸を身につけて世を送らねばならない。」けれども
「みなことわられた。ついには、能役者の養子にどうかということで、三ヵ月間、汐見坂の家から両国山伏井戸に住む梅若某の家まで毎日謡(うたい)の稽古に通ったこともあったが、のどに力がなくて沙汰やみになった。
やがて医者になろうとし、蘭学と漢学とのそれぞれの塾に通い、根気よく習学した。結局、医者にはならなかったが、幕府に語学力を買われ、二十四歳のとき、役につき、厄介と書生であることの境涯から脱することができた。」
この単行本にして6ページほどの文を全部引用したくなるのですが、
ここでは端折って、婚儀にうつります。
「山内六三郎の婚儀の場合にいたっては、媒人(なこうど)さえ立てず、また席上、盃事(さかずきごと)をさせる待上臈(まちじょうろう)の役は、姉がつとめた。小気味いいほどの簡潔さである。」
原文は
「之れなん、予が将来苦楽を共にすべき妻女か。顔見たし、など思ふ間に、姉上の御酌にて三々九度は済みたり。」
そして、酒宴の様子を語ります。
「披露の酒宴は農村などの場合、三日もつづくことがあるが、右のような江戸の標準的な知識階級の場合、しつこいものではなかった。
酒間、謡並仕舞もありき。高砂・猩々(しょうじょう)の類なりしならん。
とあっさりしたものである。さらには、席上、人数もごくわずかなものであった。
唐突だが、こんにち流行している無用に贅沢な・・しかも産業化した・・婚礼のなかにまぎれこんだりするとき、六三郎の時代のほうが民度が高かったのではないかと思ってしまう。」
このあと司馬さんは、余談のようにしてチュー政権下のヴェトナムのサイゴンの様子を語るのでした。
山村修氏の本の読後感として、私は「六三郎の時代の民度」を連想したというわけです。ちなみにこれは新潮社「司馬遼太郎が考えたこと ⑪」にあります。いまは新潮文庫も出ておりまして手に入りやすいので、短い全文を読むのも参考になるかと思います。
「酒間、謡並仕舞もありき。高砂・猩々(しょうじょう)の類なりしならん」
ほかならぬ、その謡曲を現代人のために紹介しているのが、今度でたばかりの山村修著「花のほかには松ばかり」なのです。門外漢の私には、たいへんよい入門書になっております。日本の民度というのは、こうして高めるのだという見本のような入門書になっていると思うわけです。
RJではろこのすけと名乗っております、ゆりです。
ブログ開設おめでとうございます。
奇しくも私も同じgooブログでした。
ゆっくりと和田浦海岸さんの言葉に触れることができると思うと嬉しいです。
gooブログでも宜しくお願いいたします。
今、たどり着きました。
和田浦海岸さんが新しい冒険に乗り出しておられるとは知りませんでした。
それにしましても、あたらしいスタート、あたらしい命の誕生は良いものですね。