読売新聞の読売歌壇で、最近気になった短歌があります。
2006年11月14日の清水房雄選。その最初でした。
高砂もさんさ時雨も聞かぬまま甥の披露宴坦々と進む 一関市 渡辺みき子
清水房雄さんの【選評】はというと、
「婚礼の祝賀によく詠ずる能『高砂』の一節や東北地方の民謡『さんさ時雨』も歌う事なく、披露宴はあっさりと進行すると。若い御両人の考えで、結婚式の催しも極めて簡略化している当節だ。」
と、あります。
前に司馬遼太郎の「六三郎の婚礼」(「司馬遼太郎が考えたこと 11」新潮社。現在は新潮文庫にもあり)を引用しました。
今日は「司馬遼太郎が考えたこと 15」にある箇所を引用します。
そこに「懐かしさ(「世界のなかの日本」)」と題した文があります。
こうはじまります。
「懐かしいという日本語は、古代からある。・・・
『日本とあればなつかしし』というのは、キーンさんが青春のころ英訳に熱中した近松の浄瑠璃『国性爺合戦』のセリフのひとつで、すでにこんにちの意味になっている。
キーンさんという人は、対座している最中において、こんにちの意味において懐かしい。このようなふしぎな思いを持たせる人は、ほかに思いあたらない。それほど、この人の魂の質量は重い。」
こう書いたあとしばらくして、ドナルド・キーンさんの言葉を引用するのでした。
そのすこし前から
キーンさんは、若いころ、世阿弥の謡曲『松風』を読んだ。・・・
「『松風』を文学として最高のものと信じている」と言い、さらに「こんなことを書けば奇異に感じる人もいるだろうが」として
キーンさんの文を引用しております。
以下そのままに
「私は日本の詩歌で最高のものは、和歌でもなく、連歌、俳句、新体詩でもなく、謡曲だと思っている。謡曲は、日本語の機能を存分に発揮した詩である。そして謡曲二百何十番の中で、『松風』はもっとも優れている。私はよむたびに感激する。私ひとりがそう思うのではない。コロンビア大学で教え始めてから少なくとも七回か八回、学生とともに『松風』を読んだが、感激しない学生は、いままでに一人もいない。異口同音に『日本語を習っておいて、よかった』と言う。実際、どんなに上手に翻訳しても、『松風』のよさを十分に伝えることは、おそらく不可能であろう。
月はひとつ、影はふたつ、満つ潮の、夜の車に月を載せて、
憂しとも思はぬ、潮路かなや。
・・・音のひびきが、なんとも言えないのである。在原行平を慕う海女の恋は、あわれと言うもおろかなり。完璧な文学作品があるとすれば『松風』こそそれだ、と私は思っている。」
こうキーンさんの文を引用してから司馬さんは
「文学を読むというのは、精神のもっとも深い場所での体験である。日本語世界で、『松風』をこのようにして体験した人が幾人いるだろうか。・・・」と文章をつづけてゆくのでした。
さて、谷沢永一著「いつ、何を読むか」(KKロングセラーズ)には、謡曲に触れた箇所が見あたりません。今年亡くなった山村修著「花のほかには松ばかり 謡曲を読む愉しみ」(檜書店)だけが、キーンさんが言う所の「私は日本の詩歌で最高のものは、和歌でもなく、連歌、俳句、新体詩でもなく、謡曲だと思っている。謡曲は、日本語の機能を存分に発揮した詩である。」という、その主題を汲み取っている数少ない一人だと思うのでした。
2006年11月14日の清水房雄選。その最初でした。
高砂もさんさ時雨も聞かぬまま甥の披露宴坦々と進む 一関市 渡辺みき子
清水房雄さんの【選評】はというと、
「婚礼の祝賀によく詠ずる能『高砂』の一節や東北地方の民謡『さんさ時雨』も歌う事なく、披露宴はあっさりと進行すると。若い御両人の考えで、結婚式の催しも極めて簡略化している当節だ。」
と、あります。
前に司馬遼太郎の「六三郎の婚礼」(「司馬遼太郎が考えたこと 11」新潮社。現在は新潮文庫にもあり)を引用しました。
今日は「司馬遼太郎が考えたこと 15」にある箇所を引用します。
そこに「懐かしさ(「世界のなかの日本」)」と題した文があります。
こうはじまります。
「懐かしいという日本語は、古代からある。・・・
『日本とあればなつかしし』というのは、キーンさんが青春のころ英訳に熱中した近松の浄瑠璃『国性爺合戦』のセリフのひとつで、すでにこんにちの意味になっている。
キーンさんという人は、対座している最中において、こんにちの意味において懐かしい。このようなふしぎな思いを持たせる人は、ほかに思いあたらない。それほど、この人の魂の質量は重い。」
こう書いたあとしばらくして、ドナルド・キーンさんの言葉を引用するのでした。
そのすこし前から
キーンさんは、若いころ、世阿弥の謡曲『松風』を読んだ。・・・
「『松風』を文学として最高のものと信じている」と言い、さらに「こんなことを書けば奇異に感じる人もいるだろうが」として
キーンさんの文を引用しております。
以下そのままに
「私は日本の詩歌で最高のものは、和歌でもなく、連歌、俳句、新体詩でもなく、謡曲だと思っている。謡曲は、日本語の機能を存分に発揮した詩である。そして謡曲二百何十番の中で、『松風』はもっとも優れている。私はよむたびに感激する。私ひとりがそう思うのではない。コロンビア大学で教え始めてから少なくとも七回か八回、学生とともに『松風』を読んだが、感激しない学生は、いままでに一人もいない。異口同音に『日本語を習っておいて、よかった』と言う。実際、どんなに上手に翻訳しても、『松風』のよさを十分に伝えることは、おそらく不可能であろう。
月はひとつ、影はふたつ、満つ潮の、夜の車に月を載せて、
憂しとも思はぬ、潮路かなや。
・・・音のひびきが、なんとも言えないのである。在原行平を慕う海女の恋は、あわれと言うもおろかなり。完璧な文学作品があるとすれば『松風』こそそれだ、と私は思っている。」
こうキーンさんの文を引用してから司馬さんは
「文学を読むというのは、精神のもっとも深い場所での体験である。日本語世界で、『松風』をこのようにして体験した人が幾人いるだろうか。・・・」と文章をつづけてゆくのでした。
さて、谷沢永一著「いつ、何を読むか」(KKロングセラーズ)には、謡曲に触れた箇所が見あたりません。今年亡くなった山村修著「花のほかには松ばかり 謡曲を読む愉しみ」(檜書店)だけが、キーンさんが言う所の「私は日本の詩歌で最高のものは、和歌でもなく、連歌、俳句、新体詩でもなく、謡曲だと思っている。謡曲は、日本語の機能を存分に発揮した詩である。」という、その主題を汲み取っている数少ない一人だと思うのでした。
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