和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

ひろがる、詩の守備範囲。

2022-05-18 | 詩歌
以前に古本で買ってあったのですが、
未読のままだった本が、読み頃をむかえたようです。

大岡信編『五音と七音の詩学』(福武書店・1988年)。
これはシリーズ「日本語で生きる」全5巻の、第4巻目。
詩にまつわる短い随筆が37も集めてある楽しい一冊で、
4章にわけてあります。題分けされた各章が楽しめます。

お気軽な体裁の癖して、堂々たる詩歌関連の随筆アンソロジー
といった結構なのです。まあ、それはそれとして最後の随筆は、
堀口大學さん「『月下の一群』白水社版あとがき」なのでした。
そこから引用。

「僕が訳詩集『月下の一群』の初版を世に問うたのは1925年9月・・
この集に収められたフランス近代詩人66家の作品340篇の訳詩は、
すべて文字どほり、つれづれの筆のすさびになったものだったのだ。

求められて訳したもの、目的があって訳したものは、
只の一篇もないのである。何のあてもなく、ただ訳して
これを国語に移しかへる快楽の故にのみなされたものだった。

後日、集大成して一巻の書にまとめなぞといふ考へは毛頭なかった。
ましてや秩序あるフランス近代詩の詞華集(アンソロジー)を
作り上げようなぞといふ野心をやである。・・・   」 ( p261 )


ここから、わたしに思い浮かんできたのは、詩の守備範囲
ということでした。アンソロジーを編むというと、
まずは、おのおの思い浮かぶ詩を、集めることになるのでしょうが、
探す守備範囲となると、なかなか思い至らない、そんな気がします。
そこで、ここに登場してもらうのは、意外な3点。

① 月下の一群
② 謡曲
③ 芭蕉七部集

はい。この3つの守備範囲は、どうでしょうか?
読んでいない私が指摘しても信憑性はないので、
ここは、3つにわけて語ってもらうことに。

① 月刊『新潮』2000年新年特別号でした。
河盛好蔵氏が「20世紀の一冊」として、この本をとりあげておりました。
はじまりは

「堀口大学さんの訳詩集『月下の一群』に出合ったときの驚きは、
 97歳の今も忘れない。・・・・

 たとえば、アポリネールのこういう詩である。

 『 働く事は金持をつくる
   貧乏な詩人よ働かう!
   毛蟲は休なく苦労して
   豊麗な蝶になる   』。

 たった四行の詩なのに、機知があって、
 新鮮で、感覚がまったく新しい。
 原詩を取り寄せて対照すればするほど、
 それが19世紀的なものから完全に脱した、
 真の現代詩であることに驚きを深め、
 ついに新しい時代が到来したと、
 胸が高鳴るのを抑えきれなかった。   」

あとは、短文の最後を引用。

「 文学の底に流れているのは詩である。
  これはごく当り前なことなのに、
  わが国の近・現代文学は、いつの頃からか
  詩と小説が分離してしまい。その傾向は今に続いている。
  私は大学さんのあの仕事にかえることが、
  今もっとも大切なのではないかと思っている。 」( p275 )


② ドナルド・キーン著「日本文学のなかへ」(文芸春秋・昭和54年)

「 私は何度も『松風』を講じ、劇詩としての美しさもさることながら、
  その演劇的な美に搏(う)たれることが多い。それのみならず
  『松風』を文学として最高のものと信じている。

  こんなことを書けば奇異に感じる人もいるだろうが、
  私は日本の詩歌で最高のものは、和歌でもなく、
  連歌、俳句、新体詩でもなく、謡曲だと思っている。

  謡曲は、日本語の機能を存分に発揮した詩である。
  そして、謡曲二百何十番の中で、『松風』はもっとも優れている。
  私は読むたびに感激する。

  私ひとりがそう思うのではない。コロンビア大学で教え
  始めてから少なくとも七回か八回、学生とともに『松風』を読んだが、
  感激しない学生は、いままでに一人もいない。

  異口同音に『日本語を習っておいて、よかった』と言う。
  実際、どんなに上手に翻訳しても、『松風』のよさを
  十分に伝えることは、おそらく不可能であろう。

    月はひとつ、影はふたつ、満つ潮(しお)の、
    夜の車に月を載せて、憂しとも思はぬ、潮路かなや。

   ・・・音のひびきが、なんとも言えないのである。 」( p57 )


③ 柳田國男著「木綿以前の事」の自序に

 「 そうして私がこの意外なる知識を掲げて、
  人を新たなる好奇心へ誘い込む計略も、
  白状すればまた俳諧からこれを学びました。

  七部集は三十何年来の私の愛読書であります。・・・ 」


はい。河盛好蔵さんは、指摘します。
 『 私は大学さんのあの仕事にかえることが、
   今もっとも大切なのではないかと思っている。 』

  ドナルド・キーンさんは、指摘します。
 『 私は日本の詩歌で最高のものは、和歌でもなく、
   連歌、俳句、新体詩でもなく、謡曲だと思っている。 』

 ちょっと、柳田国男の『三十何年来の私の愛読書であります』だけじゃ
 弱いかなあ。たとえば、桑原武夫さんなら、どうするか。杉本秀太郎氏は、
 桑原さんへの追悼文のなかで、こんな一場面を、切り取っておりました。

「 1982年の9月、私はパリに出かける用があり、たまたま
  パリ滞在中の桑原さんと何度かお会いした。10月に入ったのち、
  帰国直前の桑原さんをホテルにたずねていくと、
  トランクのうえに一冊の岩波文庫が投げ出してあった。

  『この文庫、ほしかったら君にあげるよ』
   と言われて手にとると、それは『芭蕉七部集』だった。

  『あれ。ぼくもこれを持ってきています』と答えると、

  驚いたような、咎めるような、しかしまた安堵したような、
  照れたような、微妙な表情が、桑原さんの顔にしばらく浮かんでいた。」

        ( p199 杉本秀太郎著「洛中通信」岩波書店1993年 )




               
コメント (2)
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