俳諧と、座談との、結びつきを思ったりします。
俳諧と、それから座談・対談・閑談・インタビューといろいろあります。
そういえば、丸谷才一と大岡信と、お二人は歌仙のお仲間。
その二人の対談の運びは、どのようになるのかとの興味で、
丸谷才一対談集「古典それから現代」(構想社・1978年)を手にする。
そこに、「唱和と即興」と題して二人して対談が載っているのでした。
ここでは、最後の箇所からはじめます。
丸谷】・・近代日本文学における詩の実状を手っとり早く示しているのが、
いいアンソロジーが、一つもなかったってことですね。つまり、
文学と文明との間を結びつける靭帯がなかった。
言うまでもなく、文学の中心は詩なんだし、
その詩と普通の人間生活、あるいはそれをとりまく
文明とを結びつけるのは、個人詩集じゃなくて詞華集、
昔の話で言えば・・・勅撰集なわけですからね。
・・・・・・・
眠られないときに、日本人がみんな読む、
そういう詩のアンソロジーはないんですよ。
詩人の仕事が今の社会の言葉づかいに対して
貢献するというようなことはないし・・・・
これではいけない。(笑) ( p120 )
うん。『 詩のアンソロジー 』という視点が語られておりました。
はい。対談はこれだけじゃなくって、あれこれと豊富な内容でした。
せっかくなので、歌仙が話題にあがってる箇所も引用しちゃいます。
大岡】・・・・たとえば安東次男さんにしても、
丸谷才一、大岡信みたいな、そういうのが連句などを
やってるなんて話になると、すぐに文人趣味に走ってる
ということになる。
丸谷】 それはそうでしょう。
大岡】 ほんとのところを言えば、
連句にわれわれが固執しているわけじゃなくて、
そういう形で、まったく異質の人間たちが出会ったときに
見えてくるものに惹かれているのだということですよね。
丸谷】 そうですよ。 ( p100 )
うん。せっかくなのであと一箇所引用します。
丸谷】 結局、現代日本の俳人は、
発句のはかなさね、それを知らなさ過ぎると思う。
・・・・・・・
ことに明治以後は芭蕉の偉大さには、そういう
はかなくて、あっけなくて、つまり
吹けば飛ぶような一面があるってことを見逃してしまった。
ところが立派なほうだけの芭蕉を捉えると、
芭蕉の立派さがやはり痩せてきますね。
大岡】 それはありますね。 ( p98 )
対談は、歌仙のひろがりほどの、広範囲なのですが、
比べると、私の引用の、みみっちさが感じられます。
それはそうと、
『眠られないとき』と『はかなくて、あっけなくて』
の両方を引用したのでこのくらいでご勘弁ください。