今日は、ゴミゼロの日というので、
午前中は地域の草刈り。それから神社まわりの草刈り。
晴れたよい日で、お昼は神社前で手渡されたお弁当を食べました。
木々の日陰で、そこそこ風がそよいでいて、
こうして外で、お昼を食べるのも何年ぶりかなあ。
などと思ったりして。
とりあえず、お昼でおしまい。
帰ってシャワーをあびて、さてっと、
取り出したのは、安野光雅の対談でした。
佐藤忠良・安野光雅「ねがいは『普通』」(文化出版局・2002年)。
のちに、「若き芸術家たちへ」と題名を変えて中公文庫(2011年)。
この対談の、最初は『バイカル湖』を行く船の上でした。
うん。そのはじめの方を引用したくなりました。
佐藤】 あれね――僕は1944年に招集されて、
満州(中国東北)に行かされていたんです。
じきにソ連が参戦し、突撃ってことになって――。
僕は戦線から逃げ出したんですよ。隊長を誘惑してね。
・・・・・・
でも結局は敗戦を知って投降し、シベリアで3年間、
抑留生活を送ることになるんです・・・
うん。佐藤忠良氏も、シベリヤ抑留されていたのですね。
知らなかったことでした。
このときに、佐藤忠良氏が、真剣に考えたことに
佐藤】 ・・・ あのころ33歳くらいでしたか、元気だったんですね。
先が見えないから、地続きの、かねて憧れていたパリまで、
歩いて行くより仕方がない――真剣に考えたんです。
安野】 季節にもよりますが、冬だったら確実に死んでいますね。
一里も行かないうちに。
佐藤】 そんなこと、全く考えなかった、その時はね。
彫刻を続けたいという気持ちと、パリへの強い憧れ
だけがありました。でも結局は敗戦を知って投降し、
シベリアで3年間、抑留生活を送ることになるんですが。
ここから、対談は『憧れ』へとひろがってゆくのでした。
安野】 憧れといえば佐藤先生、
『文化というのは憧れのようなものだ』って
以前、言っておられましたね。なるほどと思いました。
佐藤】 あれは、いろいろ考えて
学問的に系統立てて話したわけではないのですが――
文化について話さなくてはならないことがあってね。
我々、文化って言葉はつかっているけれど、文化って何だろうと。
文明なら、なんとなく話せる。けれど文化ってことになると、
筋道立てて出てこない。
それで苦し紛れに、
『文化って憧れみたいなものだ』って話したんです。
・・・・・・・・
そう、自分の目で見て、触ってみなくちゃね。
でもテレビの映像で見たりするとわかったような気がしちゃう。
行かなくてすんじゃう。
文化からだんだん遠ざかっていくわけです。
このあとに、安野さんの言葉につられてラブレターの話をしておりました。
うん。そこまで引用しておわります。
佐藤】 ラブレターの話ですが、
今、若い人って電話で間に合っちゃう。
我々若いとき、一生懸命、手紙書いたでしょう?
ポストまで行ってドキドキして。
手紙を入れたら、
今度は返事が来るかどうか待つ時間がある。
返事が来ても相手の字が下手だったりすると、嫌になったり。
天気があまりよくないって書いてあれば、
その言葉の裏側まで読もうとしたり――。
彫刻って触角が何より大事な仕事なんです。
コンピューター全盛の時代でも我々彫刻家は、
先人が腰蓑(こしみの)つけていたのが、
背広にネクタイつけるようになっただけの違いで、
相変わらず粘土をこねている――
でも、文化って、そういう触覚感が大事なんですよ。
( ~p22 単行本 )