吉田光邦著「京のちゃあと」(朝日新聞社・昭和51年)は、
最初の51頁が、遠藤正の写真を掲載しており、
その写真だけで私は満腹感を味わえました。
それはそうと、パラパラひらいていると、
アートと題した章に、堂本印象を語ったこんな箇所がありました。
「だが印象は恐らく東京では理解されまい。
遊びの要素をもつ仕事だから。」(p92)
はい。美術には疎い私なので、
堂本印象ってどんな絵を描いているのかも知りません。
とりあえず調べると
堂本印象は明治24年生まれ(1891~1975)。
生涯独身を通したが、兄弟姉妹がおり、
弟の四郎の子息が洋画に転じた堂本尚郎(ひさお)。
とあります。
それはそうと、
木村衣有子著「京都のこころAtoZ」(ポプラ社・2004年)
が古本で200円。さっそく買いました。
なになに、木村衣有子(ゆうこ)さんは1975年生まれ。
まえがきは、こうはじまっておりました。
「私は京都に、8年のあいだ暮らしていた。
はじめてのひとり暮らし、はじめてのアルバイト・・・・
ほとんどの『はじめて』には、京都で遭遇した気がする。
京都の街のスケールは、自転車でぐるりと回れるくらいで、
とても把握しやすかった。そしてその中には、感じが良い
喫茶店から、敷居の高そうな料亭まで、
いろいろなものがおさまっていた。
3年前に、仕事の関係上、東京に居を移した。・・・」
この本は、A~Zまで項目があり、Dは堂本印象でした。
各見開きページのどちらかに、写真が掲載されてます。
さてっと、衣有子さんの堂本印象は
「私は、堂本印象の個人美術館の真向かいにある大学に
4年間通っていた。白い下地に破片のようなレリーフを
いっぱいくっつけた、過剰で奔放な佇まいが私の目には
強烈なものに映り、在学中にはいちどもその門を
くぐったことはなかった。・・・」(p28)
はい。文は2頁であと2頁が写真。それでD章はおわります。
その最後を引用。
「おそるおそる『堂本印象美術館』に入館してみた。
階段の手すり、ドアの把手、ランプシェードに至るまで、
すべて彼がつくったもの。外観のイメージ通りに過剰で
装飾的な、この場所にはやっぱり馴染めず、早々に退館。
持ち帰った美術館のちらしには
『画家としては、ひとつの様式が完成すればすぐに
それを打破し、いつまでもそこに安住せずに、気前よく
それを打ち捨てて次に段階を目指して進まなければならない』
という、本人の文章があった。・・・・・」(p31)
はさまった写真の一枚は、こう説明されておりました。
「岡崎の『京都国立近代美術館』のミュージアム・ショップで、
細い線で描かれた鍵と錠前のイラストがあしらわれた
コースターを見かけた。とても洒落ていた。友達へのお土産にも、
そして自分でも使おうと5,6枚購入した。」
これが堂本印象のデザイン。
もう一枚の写真は、
「大学の、というか美術館の近くの和菓子屋『笹屋守栄(もりえ)』の、
水彩の抽象画をあしらった箱は、和菓子にしてはだいぶハイカラな
雰囲気だと思っていたが、堂本印象の絵だと最近知った。」
さらに衣有子さんはつづけます。
「『東福寺』本堂の堂々たる龍の天井絵も、
彼(堂本印象)が手がけたという。
墨で描かれた凛々しい龍、なんと体長54メートル。」
「ある日、街頭での出張切手販売に足をとめ、
可愛らしいうさぎの切手を買ったら、
またもや堂本印象の作。どれもこれも、
まったく印象がちがう・・・・」
注:切手は「日本画『兎春野に遊ぶ』」で
作品は1938年の作。切手としては1999年発行。
また、吉田光邦さんの言葉が浮かびます。
『だが印象は恐らく東京では理解されまい。
遊びの要素をもつ仕事だから。』
ところで、木村衣有子さんは、
堂本印象美術館を早々に退館してから、
それから、どうしたのだろうなあ。
たとえば、堂本印象回顧展などがあったら、
出かけたのだろうか、どうなのだろう。
気になるなあ。