安岡章太郎著「酒屋へ三里、豆腐屋へ二里」(福武書店・1990年)。
未読本を、この機会にひらく。
函付の本です。
「めまいを伴うメニュエル氏病や胆石痛から心筋梗塞を併発し、
半年に及んだ入院生活と予後の日々と・・・・」
このように帯に書かれております。
装丁は、田村義也。
表紙絵は、与謝野蕪村の「夜色楼台雪万家」より。
函も表紙もりっぱです。それだけでもう満足感があります。
けれども、今回は、ひらいてゆきます(笑)。
目次は全14題。雑誌に掲載されたものをまとめてあります。
目次で、気になる箇所のみパラパラ読み。
1番目「かるたの教訓」。
4番目「下剋上の学問」。
14番目「酒屋へ三里、豆腐屋へ二里」。
1番目に「この1年、私はメニュエル氏病といって
目まひの病気に悩まされた」とあります。
この病気の気になる箇所がありました。
「一番こまったのは本が読めないことだ。
これも最初は理屈っぽい評論のやうなものを読むと
発作が起ってゐたのだが、そのうちにどんなものでも、
新聞であらうが、週刊誌であらうが、字を見てゐると、
たちまち目が廻りだした。また映画もダメだし、テレビもいけない。
・・・・・そこで、イロハがるたのことを憶ひ出したわけだ。戦争中、
空襲警報の出てゐるとき、灯火管制で真暗な部屋の中で私たちは、
よくイロハがるたを『イ』から順番にそらで憶ひ出す遊びをした。」
(p7~11)
はい。連載のはじまりは、このようでした。
ちなみに、1986年1月に連載がはじまり、途中中断して
1989年12月で終っております。最終章の
「酒屋へ三里、豆腐屋へ二里」では、退院して
「最近の私は朝から豆腐ばかり食ってゐる・・」として、
だんだんと回復し、
「私は歩く。夏の暑いさかりは、早朝だけしか歩けなかったが、
秋になってからは朝も昼も、そして気が向けば夕刻、
月の出た頃にも多摩川べりを散歩する。・・・・
いまは自分一人でただただ歩く。」(p198)
はい。この本にも京都が登場しておりました。
石田梅岩です。第4章「下剋上の学問」に出てきます。
「梅岩といふ人は、丹波の山奥の農家の倅で、
十歳頃に京都に出て丁稚奉公から叩き上げで、
二十五、六の頃には呉服屋の手代になった。
その店に二十年ほど勤めてゐる間、朝は同僚より早く起き、
夜は人が寝静まってから読書にはげみ、結婚もせずに
本ばかり読んで暮らしたらしい。・・・・・・
四十二、三の頃に、つとめてゐた呉服屋をやめ、
本格的に学問に取り組んだが、さらに二、三年たって
自分の家に町内の人をあつめて教へはじめた。勿論、
初めの頃は『無学な人間が何を教へるのか』と軽蔑され、
うさん臭げな者にも思はれてゐたが、そのうちだんだん
聴講者があつまるやうになり、五年もたつと自宅では
捌き切れなくなって、錦小路の裏手の大長屋の座敷でも
講座をひらくほどになった。やがて江戸にも、弟子の一人が
進出して塾をひらき、つひに全国的に心学がひろまることに
なったといふーーー。
一体どうしてかういふことが可能であったのか。
要するに、徳川中期には一般庶民の間にも、それだけ
知識欲やら学門欲やらが向上してきたといふことに違ひないが、
その庶民の向学心は何から起ったか? おそらくそれは、
小林秀雄が『本居宣長』の中で言ってゐる、
学問の『下剋上』といふものに違ひない。
つまり、戦国時代を一貫してゐた『下剋上』といふ風潮、
これは単に下の者が上の者をひっくり返すといふだけではない。
たとへば『大言海』には『此語、でもくらしいトモ解スベシ』とあるといふ。
そして、この『でもくらしい』といふ意味での下剋上は、
一介の下民から身を起した秀吉が天下を取って、それで
お仕舞ひになったわけではない。・・・・」(p43~45)
もどって、
第1章『かるたの教訓』のおわりの方に、
土佐藩の馬淵嘉平が語られております。
「幕府では、朱子学以外の学問を弾圧してゐたから、
心学も時代や藩によっては迫害をかうむったやうだ。
・・・土佐藩では馬淵嘉平といふのが、文政年間、
熊本で心学を・・習って、それを土佐に帰って教へた
・・・・後に保守派の巻きかへしにあって投獄され、
獄死をとげてゐる。嘉平の罪状は、
心学講義の疑ひあり、といふことで、そこから私は
『心学』なるものにちょっと気を引かれたが・・・」
(p15)
うん。京都と土佐とが出てくるのでした。
ちなみに、安岡章太郎さんは1920年高知県生まれ。
そして、亡くなったのは2013年。