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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

『月と草樹』と、68歳の定家。

2020-06-23 | 京都
東日本大震災後に、はじめて『方丈記』を最後まで読んだ。
その時に、堀田善衛著『方丈記私記』(筑摩書房)も読む。

ついでに、堀田善衛著『定家明月記私抄』を買ってみる。
買っても、『定家明月記私抄』『定家明月記私抄続篇』は読まず、
そのまま、本棚へ(笑)。
古本でも『続篇』の方は、函入りで新刊なみのきれいさ。
どうやら読まないどころか、開かれた形跡もなし。
その続篇を、今回パラパラとひらきます。

はい。藤原定家といえば、百人一首。
百人一首は、定家の晩年につくられております。
それでもって、続篇だろうと、見当をつけて手に取りました。
うん。私に読み頃をむかえておりました。
続篇の「後記」から引用。

「『明月記』の国書刊行会版を手にしたのは、
戦時中のことであった。・・・・・
そのときから、すでに半世紀近くの歳月が流れて行った。
『明月記』は、定家卿74歳のところで終っている。・・・」

後記の最後には
「 1988年新春 バルセローナにて堀田善衛 」

本文の後半から読み始める(笑)。

「安貞2年は、明月記全欠。
安貞3年は、3月5日に寛喜と改元された。
この年、定家は68歳。実のところを言えば、
これを書いている筆者もまた現在、年を重ねて68歳、
定家卿と同年なのである。

寛喜元年(1229年)のこの年は、京都においても
ーーー 群盗横行は相変わらずであったが ---
また定家の家にあっても、さほど波風の立たない、
まずは平穏な一年であった。

けれども、病身なことは、これも相変わらずで、
老年の相はますます明らかにあらわれはじめている。

3月には『雑熱猶減ゼズ』、4月には咳の病いが続き、
5月13日『窮屈ノ余り、痔病発(おこ)ル』・・・・・・
この5、6月の頃にはまた、左手が腫れて痛み、
灸や蛭(ひる)を施さなければならなかった。
また口熱(おそらくは歯茎の腫れであろう)が発し
 ・・・・・・・」(p233)

まだ、つづくのですが、すこし飛ばして、その後でした。

「かくて老後を養うについて、定家を慰めるものは、
月と『草樹』である。月は夜のことであるから、
昼の草樹を先にするとして、
『老後ノ身、草樹ニ対スルヲ以テ適々憂ヒヲ休ム』
(4月26日)という記述があり、またその
同好の人々もが訪ねて来るようになる。・・・・・
どちらかと言えば秋から早春にかけての、
粛然たる趣きの方が好ましいものと見えているようである。
・・・・・
『菊蘂、初メテ綻(ほころ)ブ。
萩ノ花モットモ盛リナリ。閑夜只之ヲ望ム。
図(はか)ラズモ68年ノ秋。又夢ノ如クニ過グ。』
(9月30日)」(p235)

堀田善衛氏の、月についての指摘も感銘深い。

「夜に入っては、月である。定家は、この日記中のどこにも、
『明月記』と名付けたことについての所以を書いてはいない
けれども、それはほとんどが毎日の晴雨のことからはじまって、
夜の月を記すことに終っていると言っていいほどである。」
(p236)
    ・・・・・・

「私はいま草樹と月に関する記事を引用して
これを書写していると、灯火に乏しいこの当時の人々が、
如何に花や紅葉、あるいは冬の枯林、そして
月光に近く暮していたかが、やはりしみじみと感じさせられて、
ある種の胸に迫るものを覚える。彼等は、おそらく
自然などという言葉を必要としなかったであろう。」(p238)


うん。68歳の定家は、まだつづきます(笑)。

「この年、珍しく数回の歌会を自邸で開いている。
5月14日、6月3日等である。そうして作歌の前後には、
この頃では必ずと言ってよい程に連歌が行われ、
どちらが主体かわからなくなってしまっているのである。
しかも酒や肴、あるいは懸(賭・カケ)物を持参する輩も出て来て
 ・・・・・
歌会はこれきり、打ち切ってしまっている。
・・・・・・
職業歌人としての定家としても、
耐えられる限度がすでに来てしまっている。
またかつての新古今集撰の時の寄人仲間であった、
家隆の家に群盗が入り、『其ノ装束等ヲ取ルト云々』
という事件があったりしたのでは、もうすでに
歌のための風土、雰囲気も失われたに近いであろう。
・・・・
その代り、という訳ではないが、書写、とりわけてこの年は、
病身を賭し、心魂を傾けて天台止観十巻の書写につとめ、
これにまた句読点を加える仕事に従事している。
これもまた晩年の用意の一つである。」(p240)


はい。百人一首を編むきっかけになった
定家74歳までは、もうすこし間があります。

「明月記は、この嘉禎元年(1235年)12月の
記をもって終る。その後の記事は知られていない。
定家、74歳、この後なお6年を、彼は生きた。」(p309)

はい。ここまでにします(笑)。







 




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