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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

岸田劉生と京都。

2020-06-03 | 京都
京都美術館の企画展「劉生と京都」(2003年)、
その展覧会図録が古本で500円でしたので購入。
へ~。岸田劉生と京都と関係があるのかなあ、
という興味でひらいてみる。
最後に岸田劉生年譜があります。

1891(明治24)年岸田吟香の4男として東京銀座に生れる。
1929(昭和4)年満鉄の招聘により、中国・大連に渡る。
11月末帰国し山口県徳山に滞在。胃潰瘍に尿毒症を併発、死去。
38歳で亡くなっております。

その短い生涯で、京都とは、どういう接点があったのか。
関東大震災が、関係しておりました。
1917(大正6)年、肺結核の転地療養のため神奈川県鵠沼に転居。
ここで関東大震災に遭遇します。
1923(大正12)年9月1日家屋は全壊。
10月3日現在の京都市左京区南禅寺草川町に仮寓する。
1926(大正15)年3月14日離洛。神奈川県鎌倉長谷に転居。

この展覧会を企画した篠雅廣氏へのインタビューもありました。
そこには、ご自身の企画の動機へも言及されております

「まぁ、これは、かつて勤務先で
阪神大震災に遭遇した経験と深く関わっています・・・」

この図録には、巻頭に酒井忠康さんの文章が載っております。
その酒井さんについて、篠雅廣さんは書いてます。

「酒井さんは、岸田劉生については、
長年にわたり深く研究されているかたで、
学芸員の大先輩としても教えられることが多くありましたし、
わたし自身、ひそかに私淑しています。
もう、十年ほど前になりますが、なにかの委員会の会合に
同席していたとき、岸田劉生の話になって、酒井さんが、
『劉生の悪口を言うやつは許さねぇ!』と言われたことを覚えています。
そのとき、わたしには、『そうかっ、鎌倉の文化人というのは、
劉生をこのように考えているんだなぁ・・・』と
感慨をあらたにした記憶があります。・・・」(p163)

各章には短い解説があります。篠雅廣さんの言葉でしょうか。
「第2章関東大震災勃発」には、こんな文がありました。

「震災直後の、湘南海岸へ押し寄せる高さ9~10メートルにおよぶ
津波や、大小の絶え間ない余震、荒唐無稽な流言により、3日には
神奈川県全域に戒厳令が出され、横須賀海兵団の水兵、甲府連隊など
各地から軍隊が派遣されて警備にあたる非常事態となりました。

・・・・劉生は、鵠沼にとどまることも、また壊滅状態にあった東京に
帰ることもできなくなりましたが・・横須賀から軍艦に乗りこみ、
清水港を経て名古屋に・・・・京都・南禅寺草川町に・・・

東京から京都へは、劉生の知人もふくめて多くの文化人が脱出し
・・・・いっぽう、鹿子木孟郎と池田遙邨は、困難を排して果敢に上京し、
被災者の罵詈雑言にたえながら、帝都存亡の危機と凄惨な事態を
画家の冷徹な眼でとらえて、単なるルポルタージュのレヴェルに
とどまらない『歴史画』を製作しました。」(p76)

はい。この図録の第2章には、池田遙邨の「災禍の跡」と
鹿子木孟郎の「大正12年9月1日」の絵画が並びます。

第3章は「劉生の京都」。解説はこうはじまります。
「関東大震災の難を避けて、劉生は・・とりあえず仮寓を、
琵琶湖疎水をはさんで京都市動物園の南側、南禅寺
草川町にさだめます。
『劉生日記』からうかがえるように、かれ自身、そもそも
長く滞在するつもりはなかったようですが、京都は、
町のありかたのすべてが日本美術の宝庫であり、
『江賀海鯛(絵が買いたい)先生』と自称したほど、
古美術収集に熱をあげた劉生にとっては・・・・」(p80)

この3章に「童女舞姿」(大正13年)の絵があり、
これが図録の表紙も飾っておりました。

はい。ここからが図録の本題にはいるのですが、
ここまで、関東大震災と『江賀海鯛』とで私は満腹(笑)。

ああ、そうそう。この図録に安井巳之吉という人が
京都で劉生に入門しております。最後にそこから引用。

「(安井は)生家は造り酒屋で、石川県立工業学校図案科を卒業
・・・京都に居た劉生に弟子入りを希望、劉生から
『鰯を二尾描いてみよ』との課題を出されたのち、入門・・・・」
(p167)
コメント (2)
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