和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

土俵下の「砂かぶり」。

2019-11-16 | 本棚並べ
宮本徳蔵著「力士漂泊」(小沢書店)の
第四章は「鎮魂のパフォーマンス」。

うん。この章は気になりました。
はじまりは
「江戸という都市は、災害が多かった。
地震、火事、コロリ(コレラ)の流行などと、
ほとんど十年とはおかず発生して、
そのたびに万単位の犠牲者を出した。
富士火山脈にのっかっている位置、
筑波おろしの乾っ風、
埋立地であるための飲み水の質の悪さ
・・・」(p61)

はい。第四章「鎮魂のパフォーマンス」は、
こうはじまってすすむのでした。
この章は、いろいろ引用したくなるのですが、
エイヤア。思いっきり端折っていきます(笑)。

「蔵前でもそうであったが、国技館の内部は
金剛界マンダラの構造を持っている。
モンゴルといい朝鮮半島といい、チカラビトの
歩んできた通路は同時に密教の盛んだった
地域でもあるから、このことにたいして不思議はなかろう。」

この頁には、「金剛界マンダラ」と「成身会」の絵図が、
「新国技館」内部と、土俵との対比で載っております。

あとは、この箇所を引用。
それはマンダラの絵図を具体的に参照しながらでした。

「虫眼鏡で覗けばわかるが、
飛行天(ひぎょうてん)、虚空天、化楽天(けらくてん)
飲食天(おんじきてん)、歓喜天(かんぎてん)、・・・・、
そのほか数かぎりもない欲界、色界、無色界のちっぽけな
神々がマンダラのこの部分の隅ずみまで満たしている。
美貌、ブス、悧巧、アホ、デブ、痩せっぽち・・・・
およそ想像しうるかぎりのタイプが漏れなく揃っているが、
どれもが必要不可欠な構成員だ。

相撲の効験は、単に取り組んでいるチカラビトたち
のみにとどまるのではない。数千の見物人もまた、
ここで酒を飲み焼鳥をかじりつつ、
わあわあがやがや騒ぎ立てているあいだに、
勝負の真剣さについひきこまれて浄化され、
おのれを超えた霊的な存在―――
諸天、諸明王となってゆく。
おかげではね太鼓に送られて
隅田川岸に出てきたときには、
誰もが気分がすっきりし、
眼がうるみ頬が赤らんだいい顔になって
いるではないか。・・・」
(p73)

こう引用してくると、
この本の「あとがき」にも触れたくなります。
あとがきは、昭和60年に書かれております。

「不思議なめぐりあわせから生れた本である。
詩人渋沢孝輔氏、小沢書店の長谷川郁夫氏、
それにわたくしの三人は、ときおり誘い合っては
国技館に足をはこぶ楽しみをもう十年あまりも
ともにしてきた。定席がたまたま砂かぶりだという
事情もあって、相闘う力士たちの緊迫の気合い、
希望と絶望の微妙に入りまじる溜息を聞きつけるには
便利でも、きびしい規則に妨げられて、まさに数時間
というもの飲むことも食うことも叶わない。
いきおい、閉(は)ね太鼓ののち、両国橋畔の
シャモ屋もしくはドジョウ屋に傾ける盃は
ことのほかうまかった。

さめやらぬ昂奮の余波と、
すみやかにまわる酔い・・・・・
相撲が国技だなんて、小さい、小さい。
ユーラシアにまたがる数千キロの空間と、
十数世紀におよぶ時間が背後に横たわっている
のが見えないか。・・・
無類の聞き上手にして且つ皮肉屋でもあるお二人も、
当然黙ってはいず、適当に半畳を入れたり、
激烈に挑発したりした。・・・・・
両氏ともまんざら冗談とも考えられぬ真顔で、
『あれはぜひ書きとめておけ』とおっしゃる。

気がついてみると机辺には、長いあいだに
これという目的もなく少しずつ手に入れた
番付、浮世絵版画、手形、古書のたぐいが、
いつしか相当の嵩となって散らかっている。
・・・・・・
かれらの友情的強要と、犀利なアドヴァイスなくしては、
これだけのものでもとても陽の目を見ることは
あり得なかっただろう。・・・・」

はい。読めてよかったなあ(笑)。
これから、今日の相撲の録画をみながら
夕飯を食べることにいたします。ちかごろやけに、
観客の顔が鮮明に映っているテレビをみながら、
砂かぶりに、背筋を伸ばした着物姿の綺麗どころが
いて、ついつい気になるなあと思いながら。







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