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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

一々身に。

2009-11-23 | 短文紹介
外山滋比古著「ことわざの論理」(ちくま学芸文庫)に
こんな箇所がありました。


「  三十六計逃げるに如かず
というのである。
玉砕を喜ぶ国民性がすべてではないことは、こういうことわざを愛用してきたことでもわかる。建前ではなくて、本音を吐くところがことわざの身上である。文章などを書くときは、出処進退を明確にすべし、などと言っている人間が、親しい友人に窮状を訴えられると、なに、三十六計逃げるに如かずさ、などと言う。ことわざはふだん着の智恵というわけだ。
近代の文化は、書物中心に発達した。本を書く人、それを読む人は、どちらかというとエリートが多かった。狭い範囲でしか世間と接触がない。書巻の気というのは観念的ということで、生きることの生々しさがない。それを高尚なことのように考えてきた。
このごろはすこし事情が変わってきたようだが、われわれのように戦前、戦中に教育を受けた世代は学校でことわざのことを一度も習わなかった。国語の教科書にも故事は出てきたが、ことわざはない。先生の口からもきいた覚えがない。学校教育とことわざは別々の世界にあった。
それで学校を出てから、ことわざの価値を発見しておどろくことになる。学校で学んだことはほんのすこししか役に立たないのに、だれも教えてくれなかったことわざが、一々身にしみるではないか。それまで見向きもしなかっただけに、その気になってみると、新鮮ですらある。」(p147~148)

これを引用していると、森田誠吾著「いろはかるた噺」(ちくま学芸文庫)の戦争中のことを語った箇所が思い浮かびます。

「アジアの広域に散開して苦闘する戦場で、あるいは、猛火に包まれてゆく日本列島で、ぎりぎりのところへ追いつめられた民衆が、思わず呟いたのは、幼い日に覚えた『まかぬ種ははえぬ』であり、『無理が通れば道理ひっこむ』ではなかったでしょうか。そして『負けるが勝』とひそかに語りかけ、『縁と月日』は待つがよいとささやいて、戦後に立ち向かわせたのも、卑小な『いろはかるた』の記憶ではなかったでしょうか。
戦後の社会は、新しくならねばならぬ、という信仰のもとに、日本の古い文物を拒絶して、『いろはかるた』に至るまで、棄てられて、忘れられて、塵に等しい遺物となりました。また、戦後の教育改革によって、新仮名遣いが採用され、『いろは歌』も否定されて、『アイウエオ』の採用が内閣によって望まれました。『いろはかるた』は、諺を内容としたかるただとはいっても、構成の軸となっている『いろは歌』の通じない世となっては、いよいよ凋落の道をたどるほかはありません。それやこれやが重なって、昔ながらの『いろはかるた』を欲しいなどと訪ね廻ってみても、『あんなもの』が手に入らなかったのも当然でした。」

この森田氏のあとがきは
「・・・諺のノートから年代順に文例を抜き、『東西いろはかるた資料』と名付けて百部ほど、小さな私版にして友人知己に配ったのは、昭和44年のことでした。」とはじまっております。


つぎは、外山滋比古著「思考の整理学」(ちくま文庫)に「知恵」(p178~)という短文が入っております。こうはじまる。

「本に書いてない知識というものがある。ただ、すこし教育を受けた人間は、そのことを忘れて何でも本に書いてあると思いがちだ。本に書いてなくて有用なこと、生活の中で見つけ出すまでは、だれも教えてくれない知識がどれくらいあるか知れない。」

その6ぺージほどの文に、入っている何げないエピソードが思い出されます。

「このごろアメリカで、日本人が繊維のある食べもの、たとえば、ごぼうのきんぴら、のようなものを常食していることが、腸をつよくし、老化を防いでいるといって、それを見倣おうとする風潮が見られる。戦争中に捕虜にごぼうを食わせた、雑草の根を食わせたのは捕虜虐待であると、訴えられて、戦犯になった収容所長のあったことを思い出す。」(p181)


ここから加藤秀俊著「独学のすすめ」へと連想を飛ばしたいのですが、
今日はここまで。
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