雑誌Voice12月号が、11月10日発売になっておりました。
そのコラム「巻末御免」は300回。
谷沢永一氏の、このコラムはこれが最終回ということです。
ついては、最終回のコラムを丁寧に引用したいと存じます。
「だいたい結論なんてものは書いてみなくてはわからない筈で、わかっているものは書く必要がない、ということを小林秀雄に教えられた旨を白洲正子が記している(北康利編『白洲次郎・正子 珠玉の言葉』)。これは人の心を動かす文章、人の心に響く文章の要を告げた文言であると思われる。」とはじまっておりました。
そのあとに、福田恆在・伊藤整を並べて
おもむろに、結論を述べております。
ここからは、その最終回の後半を、そのままに引用しておきます。
「自己発掘の努力がうむ熱意、これが一つの脈動となって読者の真情に訴えかける。その間の事情を熟知した文章が、後世に遺るのである。単なる記述は新聞記事と異ならない。評論とは自己を評価し直すことである。それを縮約する不断の営みが、読者の胸を打つのではないか。
と、ここまでいつも通り筆を進めてきたが、連載三百回を区切りに筆を置くこととする。・・・・筆法拙く、意余って言葉足らずの結論を招きがちであったことをしきりに反省しながらも、発言を続けられたのは幸運というほかない。
四半世紀にわたり読者から過分の支持を得たことを格別の歓びとする。」
この日のコラムは題して「二十五年」。
そのコラム「巻末御免」は300回。
谷沢永一氏の、このコラムはこれが最終回ということです。
ついては、最終回のコラムを丁寧に引用したいと存じます。
「だいたい結論なんてものは書いてみなくてはわからない筈で、わかっているものは書く必要がない、ということを小林秀雄に教えられた旨を白洲正子が記している(北康利編『白洲次郎・正子 珠玉の言葉』)。これは人の心を動かす文章、人の心に響く文章の要を告げた文言であると思われる。」とはじまっておりました。
そのあとに、福田恆在・伊藤整を並べて
おもむろに、結論を述べております。
ここからは、その最終回の後半を、そのままに引用しておきます。
「自己発掘の努力がうむ熱意、これが一つの脈動となって読者の真情に訴えかける。その間の事情を熟知した文章が、後世に遺るのである。単なる記述は新聞記事と異ならない。評論とは自己を評価し直すことである。それを縮約する不断の営みが、読者の胸を打つのではないか。
と、ここまでいつも通り筆を進めてきたが、連載三百回を区切りに筆を置くこととする。・・・・筆法拙く、意余って言葉足らずの結論を招きがちであったことをしきりに反省しながらも、発言を続けられたのは幸運というほかない。
四半世紀にわたり読者から過分の支持を得たことを格別の歓びとする。」
この日のコラムは題して「二十五年」。