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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

毎年のように。

2009-11-20 | 短文紹介
最近の「ちくま文庫」は気になります。
ということで、具体的に。
外山滋比古著「思考の整理学」と加藤秀俊著「独学のすすめ」は、
現在どちらもちくま文庫で読めます。
その二冊を比較してみる愉しみ。

外山滋比古氏は1923年愛知県生まれ。
加藤秀俊氏は、1930年東京生まれ。

共に教える立場で、大学紛争と向かい合った経験をもっている。
外山氏は「やがて東京教育大学は筑波移転をめぐって大揺れに揺れ、それがおりしもの大学紛争と重なってたいへんな混乱におちいった。わたくしは移転問題がややこしくなりかけたとき、いち早く、いまの大学へ移った。」(p162)とあります。
いまの大学とは、お茶の水女子大学教育学部なのでしょうか。

それでは、学生運動の頃の加藤秀俊氏は、どうだったのか。
この11月にちくま文庫から出たばかりの「独学のすすめ」に
「あたらしい読者のために――ちくま文庫版へのあとがき」を加藤氏ご自身が書かれておりました。その肝心な箇所に大学運動のことが出て来ます。

「この時代はベトナム反戦運動や中国の文化大革命の時代でもありました。そうした思想を背景にして学生運動も活発になり、それはやがて『学園紛争』という社会的大事件になって爆発しました。その激動のなかで、わたしはかんがえるところあって、大学を辞職する決心をしました。その事情はわたしのデータ―ベースのなかに収録した『我が師我が友』という半自叙伝のなかで公開してありますから興味のあるかたは参照してみてください。」

ということで、さっそく参照。
ちなみに、この『わが師わが友』は加藤秀俊著作集の月報にご自身が連載されていたものです。その著作集第一巻の月報に「京都文化のなかで」という文があります。そこに学園紛争当時が回顧されておりました。その近辺を引用。

「ほうぼうですでに書いてきたことだけれども、わたしはだいたい『教える』ということがじょうずでもないし、好きでもない。ひとりでコツコツ勉強してものを書いているほうがわたしには向いている。それがこともあろうに、『教育』学部に行って、『比較教育学』なるものを『教える』というのだから、世のなかは皮肉なものだ。しかし、コマ数は少ないし、人文の研究会にもつづけて出席することはできる。だから、教育学部へ移った。」

さて、興味深いので長い引用をしてゆきましょう。

京大教育学部の助教授というポストに移動することになった
「辞令は1969年1月16日付。・・・研究室はおどろくほどひろかった。7・8人の研究会ならじゅうぶん可能なだけのスペースがあったし、書棚もたくさん用意されていた。人文の研究室でも自宅でも、本がオーバー・フロー状態になっていたので、それもぜんぶ運びこんだ。デスクや椅子もならべた。ここなら、しずかに勉強できるだろう、とおもった。そして、初出勤の日がきた。1月16日である。しかし、なんたることであろうか、学部の建物と図書館とのあいだに毛沢東の大きな肖像がかかげられ、そのそばで数人の学生がタキ火をしているのである。もとよりわたしは、その前年から、全国の大学で、いわゆる『紛争』がはじまっていることを知ってはいたが、こともあろうに、わたしの初出勤の日にこんなことが起きようとは予想もしていなかった。・・・」

う~ん。ここから面白くなるのですが、さいわい加藤秀俊氏の文はネット上で簡単に読めますから、真ん中を端折っていきましょう。

「・・・じぶんが学部の教員である以上、毎日研究室に詰めよう、と決心した。ロック・アウトはいつのまにやら崩れて、学園は無政府主義的状態だったし、どこから石がとんでくるかわからなかったけれども、わたしは研究室にひとりすわっていた。・・・・ただ本を読み、執筆した。ほとんど無人の建物のなかに、ある日白ヘルのグループが入ってきて、ガラスを割りはじめた。そのとき、わたしは中公新書の『人間開発』の『まえがき』を書いていたが、物音が近づいてきたので研究室のドアをあけ、『バカ者、しずかにしろ』と怒鳴った。覆面をしていたから、誰であるかわからなかったが、二、三の学生はわたしの姿をみとめ、『あ、いらしたんですか、すみません』と間の抜けたことをいっておじぎをした。物音はしばらくつづいたが、わたしの部屋のガラスだけは割られずにすんだ。」

ここから、ついつい引用したくなるのですが、とばして

「解除後の学部の建物は、めちゃくちゃだった。しかし、わたしと、他の一、二の先生の研究室だけは、家具も持ち出されず、書棚も整然としていた。わたしはべつだん全共闘の仲間でもなんでもないのだが、こういうイキサツがあると、どうにも居心地がわるい。1970年の冬、わたしは、もう、ここは辞職しよう、と決心し、辞表を出した。おなじころ、永井道雄、川喜田二郎、鶴見俊輔、高橋和己など何人ものわたしの先輩や友人も、期せずして大学を辞めた。わたしは四十歳になっていた。・・・自由の身になったわたしは、全共闘のリーダー数名を楽友会館に呼び出し、わたしのほうから、かれらのお得意の『団交』を申しいれ、『自己批判』を要求した。かれらは率直であった。わたしはかれらを許すことにした。かれらの何人かとはいまも親交がある。」


ついつい引用をしすぎました。
さて、外山滋比古先生のほうにもどります。
こちらは、先生を続けられております。
そして卒業論文のことになる。

「・・卒業論文を書く学生が相談にくる。というより、何とかしてほしい、とすがってくるのである。何を書くも自由、となっているのに、何を書いたらいいのか、わからない。何を書けばいいのか、教えてほしい、と言ってくる。こうしなさい、と命じられると、反発して、そんなことしたくない、とごねるこせに、ご随意にどうぞ、とやられると、とたんに、途方にくれる。皮肉なものだ。
毎年のように、わたくしは何を書けばいいのでしょう?といってあらわれる学生と付き合っているうちに、自分でテーマをつかむ方法のようなものを教えなくてはなるまいと考えるようになった。・・・」(p30)

私は、これを読み直すとですね。
手塚治虫の『火の鳥』を思い浮かべるのです。
『火の鳥』には、リフレインというのでしょうか繰り返しというテーマがある。
最後の方に、クローン人間が培養されて次々に出て来る箇所がたしかあったと思います。
外山先生が卒論で「毎年のように・・付き合っている」という箇所は、何度も再生されるクローン人間が、つぎつぎおそいかかってくるような、そんな連想が浮かびます。

ところで、加藤秀俊著「独学のすすめ」は、1974年に雑誌『ミセス』に連載された文章なのでした。それは、加藤氏が1970年に辞表を提出したあとであります。そのことを加味して以下の文は読まれるとよいのでしょう。

「『問題』は、ひとから出してもらうもの、という観念ががっしりと根をおろしてしまっているのだ。大学で若い人たちを相手にしていたときも、わたしはそのことを感じた。論文のテーマになにをえらぶか、なにを『問題』としてとらえるか――それがじぶんの力でできるのがそもそも大学生の基本的な資格だとわたしは思っているのだが、年々、じぶんで『問題つくり』のできる学生は減ってきた。なにをやったらいいでしょう、などとききにくる連中が押しかけてくる。わたしはうんざりした。ここは幼稚園ではないのだよ、問題はじぶんで見つけたまえ、見つけたら手つだってあげるがね――相当つよいことばで学生にいったこともある。だが、かれらはキョトンとして、わたしを見つめ、わたしのことを不親切だ、などと悪口もいっていたらしい。
わたしは手おくれだ、と思った。小学生のときから、解くことのできる『問題』だけをあたえられつづけてきた若ものたちは、『問題つくり』の能力をもたないまま、モヤシのごとくに成長してしまったのである。二十歳ちかくなったこのモヤシどもに『問題つくり』の能力をあたえようとしても、もうおそい。日本社会での創造性は、だんだんよわくなってゆくのではないか――わたしは淋しくなった。いまも、淋しい。」(ちくま文庫「独学のすすめ」p155)


ところで、
1974年に加藤秀俊の「独学のすすめ」が雑誌掲載され、
9年後の1983年に外山滋比古著「思考の整理学」が出てる。

最近の新聞広告では
「東大生、京大生に『今のままじゃヤバイ』と思わせたミリオンセラー!」と「思考の整理学」を紹介しておりました。

今年2009年5月に出版された、加藤秀俊著「メディアの発生」。
そのあとがきを最後に引用。

「わたしはいつのまにやら七十九歳の誕生日をむかえていた。いうならば、これはわたしの八十代へむけての卒業論文のようなものだ、とじぶんではおもっている。筆のすすむまま書きつづけ、気がついてみたら原稿の量は千二百枚をこえていた。こんな長編を書き下ろしたのは生まれてはじめての経験だった。このめんどうな作業に挑戦できたのは、ひとえに先学がのこされた著作や先輩、友人のおかげだった・・・・・」

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