開高健著「われらの獲物は、一滴の光り」に「わたしの母校」(p52)という短文があります。そこを紹介。
「そのころの天王寺中学校は旧制で、五年制であった。私は五十期生で、旧制のさいごの卒業生である。きちんと毎日、学校にかよって、勉強したり運動したり・・・していたのは一年生のときだけで、二年生、三年生は勤労動員に狩りだされてさまざまなところですごした。三年生のときに敗戦となり、四年生、五年生はヤミ市をうろついたりパン工場ではたらいたりしてすごした。わが青春前期はうっちゃりを食らわしたり食らわされたりすることに終始したような感じである。・・・・勤労動員でいささか手荒いヤスリをかけられた。防空壕堀り、貯水池掘り、操車場の突放作業、飛行場、火薬庫、城東線の駅で憲兵といっしょに乗車整理をしたり、いろいろなことをした。操車場ではたらいたときは毎朝『駅名点呼』というのがあって、北海道から九州まで、国鉄前線の駅という駅の名前をそらでおぼえなければならなかった。その成績が学校での成績だということになり、いつもポケットに鉄道路線図を入れて歩いた。空襲、機銃掃射、大根メシ、買いだし、なにやかや、あれやこれ、『社会の裏表』なるものをゲップがでるほど教えられた。この時期にたっぷり毒を注射したので、あとで社会にでてはたらくようになってからあまりうろたえたり幻滅したりしなくてすんだ。そのかわり、すべて感動するということがなくなり、しらじらしくてならなかった。
私たちが学校の外ではたらいているあいだ、校舎には兵隊がはいっていた。外地へ出発するまえの何日か何週間かをすごすのである。・・・・
空襲と軍隊のために学校はめちゃくちゃになった。戦争が終って帰ってみると、校舎はコンクリート製のブタ小屋みたいになっていた。そして、先生のなかには栄養失調のために授業中に卒倒する人があった。冬になるとガラスのない窓から氷雨が吹きこみ、教室の床は池のようになった。私は昼メシのかわりに水を飲んでごまかした。友人の一人が私の机のなかへイモ入りのパンをこっそり入れておいてくれたりした。ゴリキーの本の題を借用すると、この中学校が『私の大学』の第一課であった。このころのことを書こうとすると、教室のことがほとんど書けない。教室の外で出会ったことだけしか書けない。(昭和39年4月7日朝日新聞夕刊)」
「そのころの天王寺中学校は旧制で、五年制であった。私は五十期生で、旧制のさいごの卒業生である。きちんと毎日、学校にかよって、勉強したり運動したり・・・していたのは一年生のときだけで、二年生、三年生は勤労動員に狩りだされてさまざまなところですごした。三年生のときに敗戦となり、四年生、五年生はヤミ市をうろついたりパン工場ではたらいたりしてすごした。わが青春前期はうっちゃりを食らわしたり食らわされたりすることに終始したような感じである。・・・・勤労動員でいささか手荒いヤスリをかけられた。防空壕堀り、貯水池掘り、操車場の突放作業、飛行場、火薬庫、城東線の駅で憲兵といっしょに乗車整理をしたり、いろいろなことをした。操車場ではたらいたときは毎朝『駅名点呼』というのがあって、北海道から九州まで、国鉄前線の駅という駅の名前をそらでおぼえなければならなかった。その成績が学校での成績だということになり、いつもポケットに鉄道路線図を入れて歩いた。空襲、機銃掃射、大根メシ、買いだし、なにやかや、あれやこれ、『社会の裏表』なるものをゲップがでるほど教えられた。この時期にたっぷり毒を注射したので、あとで社会にでてはたらくようになってからあまりうろたえたり幻滅したりしなくてすんだ。そのかわり、すべて感動するということがなくなり、しらじらしくてならなかった。
私たちが学校の外ではたらいているあいだ、校舎には兵隊がはいっていた。外地へ出発するまえの何日か何週間かをすごすのである。・・・・
空襲と軍隊のために学校はめちゃくちゃになった。戦争が終って帰ってみると、校舎はコンクリート製のブタ小屋みたいになっていた。そして、先生のなかには栄養失調のために授業中に卒倒する人があった。冬になるとガラスのない窓から氷雨が吹きこみ、教室の床は池のようになった。私は昼メシのかわりに水を飲んでごまかした。友人の一人が私の机のなかへイモ入りのパンをこっそり入れておいてくれたりした。ゴリキーの本の題を借用すると、この中学校が『私の大学』の第一課であった。このころのことを書こうとすると、教室のことがほとんど書けない。教室の外で出会ったことだけしか書けない。(昭和39年4月7日朝日新聞夕刊)」