わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

支部集会の在り方について

2013-06-10 10:11:04 | 癒し
 (問)支部集会の在り方ですが、
支部集会はどの様にあるべきか。最近は
どちらかというと本部指向というか、
そう感じられますが、これからの在り方
についてお聞きしたいんですが。


 (答)つまらない話だね。本部も
つまらないし支部もつまらない、そういう
考えでゆくと集会もつまらなくなるでしょう。
 何か、やる方も燃えないローソクを相手に
しているみたいじゃないですか。せっかく
ローソクをつけるんだったら、燃える
マッチを置いとかないと駄目になっちゃうん
じゃないですか。

 結局、支部とか集会とかいっても、どんな
人間の集まりでも、人間が生き生き生きる
というか、人間がその瞬間を楽しく自分が
生きていて良かったなという、充実して
いる想いに満ちてゆかないとね。それは
宗教だけの話じゃなくて、どんな団体集団
でもそうなんです。で、そういうものが
無くなってしまったら、もうそこに属する
気も無くなるし退屈でね。こんな所に
居たくないや、ということになる。
 やっぱり、自分がまず生き生きできるか
できないかというところから、支部とか
集会をやってゆく人が入らないと
いけないですね。自己満足ということでは
なくて、自分の心が生き生きしているか
していないかということは、例えば宗教
であれば、生命の本源、本心が喜んでいるか
いないかというところに基準がある訳です。
 そこのところを聞いてみて、そこが
生き生きしていれば、皆も生き生きする訳
なんですね。

 だから、支部集会の在り方というのは、
逆に言えば、人間の在り方生き方が素直で
あるか素直でないかにあるんですね。今の
本部は少し病気のところもある。別に誰が
悪いという訳でもないし、白光が悪い
という訳でもない。あれはあれでああいう
生き方を一回はさせられる訳なんですけど、
結局は、あそこでもって色々な人間の我
というんでしょうかね。神様の目から見ると
違うこともあるけれど、とも角人間の我
でもってどこまで出来るかどうか、バベルの
塔じゃないけれど、一回積み上げないと
人間というものは納得しないし、本当に
納得しないし、責任無責任になってしまう。
 つまり、何かこれが自分だというものが
無くなってしまえば、人間というのは
弱いもんでしょう。自分の存在をちゃんと
証拠立ててくれるようなね、寄っかかる、
例えば、本部講師であるとか准講師、常任
幹事であるとか、そういう一つの肩書きなり。
 肩書きというものはどうでもいいんだ
けれども、そういうものがないと人間は
動きにくいんですよ。

 例えば、〇〇支部というものは本当は無く
てもいいんです。無い方が本当なんです。
 白光も無くていいんです。いいんです
けれど、それをしちゃうと、いつも言ってる
ように、お祈りでも何でも最初形から入る
ということが必要だというのは、まず皆で
共通にできる形があってはじめて人間という
ものは安心できて、それで神様に頼って
ゆけるというところをもっていますので、
一応そういう意味で、形というものが非常に
大事だと。単に外形だけでなく、支部とか
集会というものが人間が集まって来る所
ですからね。そこでは色々な人がいますよ
色々なタイプの人がね。10人居たら、
10人そのまま放っておいたら喧嘩に
なるんですよ。お互いがお互いを主張して
譲らなきゃ絶対喧嘩になるんですよね。
 どこかで譲らなきゃ絶対喧嘩になっている。
 それが、あの先生はこう言っていた、
本部はこう言っていた、〇〇はどうだ〇〇が
どうだ〇〇がどうだ、〇〇さんが
どうのこうのというようなことじゃ
まとまってゆかないんですよ。誰がどうだ
こうだということは向こうから見れば判って
いることなんですよ。判っていて使うん
ですから、その辺は堪忍してあげないと、
一段飛躍できないんです。

 とに角皆で祈っている時は、どの人がどう
だとか、この人がこうだとかいう想いは
無くなっているんですよ。世界人類が平和で
ありますように、世界人類の中に自分が
入っちゃう訳でしょう。個人名は無くなる
訳なんですその時。自分がとか、相手が
誰々さんがとかね、〇〇さんが優柔不断で、
あの人何を考えているのか判らないなんて
いう想いは、無くなるんですよ。その時には。
 それが祈りなんです。そういうものを実は
一番中心にもって来ないと、人間という
ものはまとまってゆかないんです。

 要するに、自分を大事にする、相手を
大事にするということは、色んな自分の
気持ちとか、相手の都合とか自分の都合は
さておいて、元々の生命の本源のところで、
そうですねと言えるものを核心にもって
こないと、人間というものは本来
まとまらないものなんですよ。何故か
というと、人間というものはそういう風に
して神様から分かれて来た生命だから、
そうなんです。ですから、支部や集会の
在り方という前に、人間の在り方人間の
生き方というものを自分の中にどれだけ深く
問うてゆくことが出来るかという、今
どんな風に〇〇〇〇が問うているのか
どうなのか、そこのところで考えて
いかないと、支部とか集会とか本部とか
ということになると、永遠に腹を立てなく
てはならない。

 私が居る時でもおかしかったですよ。色々
な人がいて。だけど私は絶対咎めなかった
ですよ。この人がこういう風にすると
危ないなあとか、色々思ったんですよ。
 この人が会社を経営すると絶対倒産すると。
 でも倒産させたよね。それは、倒産
ぎりぎりまで行って、パチンとその人が
ぶつかって、そこで初めて、ああ人間という
ものはどういうものなのか、弱くなるという
ことはどういうことなんだと、そこで
悟る。一段階飛躍する。そこのところを
当て物屋みたいにして、あなた、こっちに
行ったら事故にあうからこっちに
行きなさいよというのは、私は出来ない。
 それは、その人の守護霊さん守護神さん、
もっと言えば、宇宙神が、その人の生命が
どこでどういう風にこう曲がって、どこで
どういう風にぶつかって、それで最終的には
こういう光輝く白光に成るんですよ
という風に、計画書が皆出てるんですからね。
 だから、先生お願いします、先生病気です
と言って来た時に、勿論、病気で可愛想だな
と思いますよ。家庭の中で争議があって
喧嘩になっていれば、そういうものを治めて
あげたいと思うけれども、それよりは、
その人の幽体を浄めている訳ですからね。
 肉体の想いと同時に幽体を浄めて、幽体
というものを光輝くものにして、霊体神体
というものが本当に光に満ちたものに
なるように。皆の話を聞いてなかった
というんじゃなくて、聞きながらもっと高い
世界へ、世界人類が平和でありますように
という、消えてゆく姿という祈りの
エレベーターに乗せて、生命のただ中に
行けるようにしたのが私なんですね。
 その役目を仰せつかったのも私なんです。

 ですから、支部も大事です、集会も大事
です。支部集会がなかったら本部も
ないんです。もっと言えば、どんな大きな所
でも、一人一人の人間が集まってないと
集会にはならないんです。社会にはなって
ゆかないんです。一人を忘れたところには
崩壊が来るんです。確かにそうなんです。
 ただ崩壊が来るけれども、崩壊という
ものが人間の我で来させているのか、
あるいは、守護霊さん守護神さんが
計算ずくでさせているのかという判断は
非常に難しいんです。

 だから、どんな事態が起きてきても、
とに角自分もなるたけ腹を立てない修行を
する。相手を責めない修行をする。それが
一番近道なんですよね。で、もし腹を
立てたくなったらですね、五井先生に全部、
あの野郎がああなんですがって言って
いらっしゃいね。その人に当たると、その人の
折角の修行の段階が曇ってくるんですよね。
 この野郎と想うとこの野郎が相手に
行っちゃうんですよね。それがいけないん
ですよね。この野郎と想ったらこの野郎を
連れて五井先生の所に来たら、この野郎を
静めてあげますから。

 固定観念で人を見てはいけないというのは、
ものすごく難しいんですよ。この人は
こういう人だと思い込むんですよ。この人は
最後まで話を聞かない人だなあとか色々
思うんですよ。思うんですけれど、要するに、
世界人類が平和でありますようにとやっ
ている時には、そんなことはちっとも
思わないでしょう。祈っている時には
楽しいでしょう。そういうつもりで人に
対してゆくということを心がけて、言葉を
胸におさめるというんですかね、余り
語らない。語りたいでしょうけれど、語ら
ない修行をこれからしていって下さい。
 受け流してニコニコするというのが一番
いいんですよね。敵をつくらないんで
すむんです。

 やっぱり、片腹痛い想いとかね、あの人に
任せてあの人はやり手だけれども、どうもと
言われてしまうと、まとまるものもまとまら
なくなるんですよね。人間はみんな癖が
あって、癖があったっていいんだけれど、
その癖を強烈なものにしてしまうと、
ある人に支持されてある人に支持されない
ということになるから、やっぱりどこかで
中間色を持つということが一番いいんです。
 その中間色は、集会というお仕事をする人
にとってはお祈りなんですよね。自分を
押さえるとかいうのじゃなくて、神様に全部
預けちゃって、神様よろしくお願いします
というそこから始まってゆかなくては、
とてもじゃないが、人間が人間を治める
なんてことは絶対出来ないんですから。
 肉体人間の想いがやるんではなくて、
後ろに守護霊さん守護神さんがついている、
五井先生がいる、五井霊団がある白光がある。
 人間の本来の姿は光なんだ神の子なんだ
という想いでやって下さることですね。
 自分がやるんじゃないという想いでやると。
 それは高慢になれというのではなくて、
させて下さるということですね。それで
やっていけば腹は立ちませんよ。


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