わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

世界平和の祈りと五井先生の唱名

2012-09-17 09:13:46 | 癒し
 世界人類が平和でありますようにという
言葉で始まる、世界平和の祈りと申しますのは、
私が神様のみ心を受けて、そしてまあ人意的に
申しますと、私が始めたということになって
いる、唱導したということになっている、祈り
でございますけど。

 これは、本当に神様のみ心そのものなので
あります。つまり、それは一言で言えば、神様
というものは愛なのだということ。そうして、
その神様の愛であるということを我々に
告げ知らせる為に、守護霊さん守護神さんという
ものが、もう絶えることなく働いている。我々は
眠ったり自分を休めたり致しますけど。そういう
休息をする暇もなく、我々のこの肉体生命も奥の
生命も、向こうの世界へ霊界移行しても、もう
本当に最後の最後まで、神様の愛というものを
本当に知らせる為に、我々一人一人を支えて、
そうして、我々の天命が完うされるように
もってゆく。これが本当の神様の愛なので。
 ですから、この神様の愛というものを現わした
体現した祈りが世界平和の祈りなのでありまして、
そうして、その神様の愛というものが、神様から
分かれて来た生命である我々人類の一人一人に
与えられている。そして、与えられているばかり
ではなくて、我々の体の奥に心の奥に神様の
生命が燃えていて、与えられていて、そうして、
その生命によって我々が生きているということを
私が申し上げた形になっている訳であります。

 しかしながら、五井昌久が始めた祈りで
あるならばという言い方をしますとね、五井先生
五井先生と言って、斉藤さんなんかよく唱名
ランニングをしましたけれどもね。ああいう風な
形で五井先生と言ってしまうと、何か五井先生に
すがってね、そして力も無いのに何か救って
もらおうというような、そういう想いになって
しまわないかと。講師の中にはそういう想いに
把われる人もあるやに想います。

 例えば、私は前にも、会に来ているね、
統一会に来ている人に、高校生だったかな、
その人に尋ねたことがあるけれども、本にも
あると思いますよ。今、世界人類が平和で
ありますようにと言えませんと。それで、
五井先生と言えるっと聞いたら、五井先生
だったら言えると。じゃあ五井先生
と言いなさい。五井先生と世界平和の祈りは
一緒なんだからということを言う。これは、
私が始めた祈りだから、私の名前を言えば
世界平和の祈りと私は同体なんだよ。つまり、
五井昌久という個人を高見の所に持って行って、
私を拝めば、御利益的なものも現世のものも
来世のものも、全部救われると。救われる
というのはそういう風なことではないんです。

 そういうことではなくて、私は、こうして
宗教の活動をする前まで、何を考えていたか
というと、悟る前は、人類の為に私の生命が
何か役に立たないか、人の為に何か役に
立たないかと。そして、神様の事をずっと
考えていた。で、主の祈りを唱えた時期が
あったりね、癒した時期があったり、生長の家
にいた時期があったりしながら、ついに
合体して、合体してというのは、真実の自己
というものと合体した訳ですよね。
 私はあそこへ書いたけれども、つまり、本当の
自分の中の本当の自分というもの、光り輝く自分
というものをその天界に行って見たらば、輝いて
輝いてて、私はそれを見た時に、まあ何だか
色んなことが生活の中に起こって来て、人間と
いうのは、絶えず文句を言ったり悲しんだり
するんだけれども、しかし、あれを見ると、
どんなことをされても、どんなことを言われても、
まあ本当に腹を立てる気にもならない。それ程
光明燦然とした世界がそこにあってですね、
そして調和した自分がそこに居た。

 で、その調和した自分というのは、神体の奥の
奥のね、この世の中で働く為の、一番見えない
所で、眠らされているような所でというか、
眠ってはいないけれども、皆の目には見えない
所で働いているその自分と、私はその時に会った
訳ですね。そうして合体した訳なんです。

 だから、私はそれから以後、肉体というものは
もっているけれども、仮に食べたり飲んだり
眠ったりする為に、その肉体を養う為には肉体を
使ったけれども、そこからの私の生活という
ものは、結局、神様のみ心に全部委ねようと
決心をした訳です。

 色んな霊修行もしましたでしょう。交差点の
車の激しい通りを目をつぶって歩けとか、何とか
言われたりして行こうと思ったけれど、行けなく
なったりとか。そういう無駄なことは、
守護霊さんはね、ささやきで色んなこと言って
ためしてくるけれど、結局、私という人間を
死なせないような形でもってね、神様というのは、
一人びとりの天命を果たさせる為には、決して
生命のある間は死なせない。そういう神様の
愛護を、あの時私は知った訳なんですが。
 つまり、自分の天命を、あの時に思い知ら
されてですね、そして、私がもう一人の自分、
神様の、神界の光り輝いている、自分の生命を
つき動かしている、真実の自己というものに
出会って、それを肉体の奥から取り出して、
肉体をそえものにして、それをあるじにして
出来ていった時にですね、私はみなさんの目
には、ちゃんと話をして、しゃべって、食べる
ものも食べてね、頭も刈りに行って、散髪も
ちゃんとして、背広も普通に着こなすという、
五井昌久にちゃんとなっていたと思いますよ。
 ちゃんと肉体を、死ぬまで可愛いがって
いましたからねえ、死ぬまでね。

 だけれども、私の本当の所というのは、
それはもう神様と本当に一つになった、
朗らかな生命そのものである自分が、それから
以後は働いて行った訳なんです。だから、
五井先生と呼びなさいという時には、その
五井昌久という、小っちゃいね、こういう
個性を持ったね、そういう個人を呼んで
どうのこうのじゃなくて、私の真実の自己、
誰もが皆んな持っている真実の自分自身、
光り輝いている迷いようのない疑いようの
ないね、把われようのない自己自身ですね、
神様の愛ですよ、その自分自身を拝みなさい
という事なんですよね。だから、それが私
いう名前、五井先生という名前になる。
 例えば、クリスチャンの人だったら、それが
イエス・キリストになる。キリストはね、
神様の言葉を語った時には、やっぱり光
そのものになっているんです。あの人の中には
イエスという個人もなければ何にもない。
 語っている時には全く何もなくなって、
あの人自体は肉体を持っているけれど、もう
空になって、その時には光だけになっている。
 釈迦にしてもそうですね。つまり、そういう
場所としての自分はあるけれど、しかし、奥で
何か眠っていた自分を引きずり出されて、
それが自分の主だという事に気がついて、
そこを本当に拝んだらね、本当に拝んでゆけば、
本当に祈りの光が増していって、自分の生命の
光が極まっていって、光明燦然とした世界に
なって行くんだ、そうして、神様に一直線に
つながって行くんだ、その事を私は体験した
訳なんです。

 それと同時に、世界人類が平和であります
ように、あの祈りをいただいた訳なんです。
 ということは、あれは神様のみ心だけれども、
もちろんそうだけれども、あの時に、神様が
本当に愛だ愛だ、神様という方は裁いたり
責めたりね、人間を悩ましたり、本来的にですよ、
本当のところ人間を愛しこそすれ、我々を
いじめたりとかね、そういうことは決して
なさらない。そこの底のところで絶対に
肉体人間を理解をして、気持ちを理解して、心を
抱いて下さる、そういう方なんだということをね、
あの時に思い知った訳ですよ。だから、そういう
神様のみ心の中に私は飛び込んじゃった訳ね。
 だから、世界人類が平和でありますように
という、あの文字に書けば何行かの祈りに
なるけれども、あの祈り言葉の中にも私自身の
本体は輝いているし、そして、五井先生と
唱える時にはですね、それは個人のこの
ちっぽけな男を指して、それを拝め拝めと
言ってる訳ではなくてね。五井先生が、本当に
天の私を見い出してね地上の私と合体させて、
そして、朗らかな本当の生命の源、大生命のもと、
大宇宙の宇宙神の愛のみ心を、ここで自分のもの
とした、そういう朗らかな人になった、そういう
意味での五井先生を、五井先生と呼ぶ時に、
我々は五井先生を通して神様へ行くんだと。

 決して私を個人崇拝するのではなくて、
五井先生という人間が到りついた、一つの
極点ですよね。
 つまり、神界に自分の本当に朗らかな生命が
働いている、霊界にも働いている、そして、
肉体の奥にも働いている、それが燦然となって
合体して、そうして貫いているものが我々を又
つき動かしている。その真理を私は五井先生
という中へ入っている。だから、お釈迦様と
言うのと、キリストと言うのと、私と言うのと、
どれ呼んでも一緒なんですよ。で、五井先生
と呼びたくなきゃ、他のものを呼んだって、
結局、私の所へ連らなってやって来ます。
 だから、唱名ランニングの時にね、世界人類が
平和でありますようにと言ったって、五井先生
五井先生と言ったって、結局一緒なんで、どっち
にも私が生きてるしね。私が生きてるという
ことは、神様のみ心の中に私が入ってるし、
あなたも入ってるし、あなた方皆一人一人が
入って、実は、その皆の愛の想い、皆の光の
想い、それが連らなり合って、そうして
あの祈りになってるんだ。だから、往相が
どうのとか、還相がどうのとかね、そういう
問題じゃないんです。往相も還相も一緒
なんです。

 我々は毎晩毎晩、前に言いましたように、
霊界に行って霊要素をとって帰って来て、
そうして、又日常のエネルギーにかえて、それで
毎日を生きている訳ですね。眠らないと
死んじゃうというのは、霊要素とらないと
死んじゃう訳だから、そうなる訳だから。そう
なるんだけれども、しかし、それというのは、
やっぱり真実の自己を本当の意味で養っていく。
 真実の自己が何処にあるかを、常に常に自分の
本心に照らして、そうして祈りの中で覚えてゆく。

 で、その為にやはり祈りというものがある訳で、
そうして、世界人類が平和でありますように
という、世界平和の祈りも、五井先生というのも、
みんな連らなって一つであって、何がどうの、
こっちが良いとか悪いとか、そういう問題では
ない訳なんです。

 だから、仮に私がね、五井昌久という人間
として個性としてね、六十何年かの生涯を生きた
人間としてね、あなた方が入りやすいから。

 それでもって、あのイエスの衣のすそを
つかんで、長血の女が癒されたという話が
あるけれど、それと同じように、五井先生と
呼んだことで、何か子供の病気が直っちゃった
とか、色んな話があるでしょう。
 五井先生と呼ぶことで、私を思い浮かべる
ことで、実は、皆さん、神様のそういう極みの
ない愛、癒しの御手、そういうものを、光明を
もらうんですよ。私を通してもらうんですよ。

 何故かというと、私はその時に、五井昌久
という人間の想いは何もかも消えてしまって
いるから、消してしまっているから、場所に
なっているから、そこで五井先生と
いうんだって私個人を呼んでいるんじゃ
なくて、私を通して神様というものの愛が、
直接あなた方の所に行って、光が直接
あなた方の所に行って、そして、あなた方の
中にある光が又呼び合って、そうして
それが、天空で地上で一つになって世界を
駆け巡って、平和の気を流してゆく。そういう
仕組みになっている訳です。

 だから、往相も還相も一つ。円環なんですよ。
 円環の印ってやったでしょう。円環の印
なんですよ。だから、本当に宇宙をぐるぐる
廻っている。印の結びなんです。

 だから、どういう印だろうと、どういう形を
とろうとね、人間は形をとらないとなかなか人間
というのは弱いんで。何かの形をとらないと、
何かの名前を呼ばないと、何か対象を持た
ないとやっていけないというのがありましてね。

 無目的では何か出来ない。ね、平和のピース塔
だってそうだし、色んな事を目的を持って
やらなければ集まって来ない。だから、〇〇が
ピースポールを何本買ったとかどうとかという
話だって、そういう事をしないと行動が出来ない
という、人間の弱さがあるし、又可愛いさも
あって、そういう事をこっちは見抜いているから、
そういう風な形にして流してゆくんだけれども。

 しかし本当のところは、ピースポールが何十本
どうのとか、どこの支部がどうのこうのとか何だ
とかじゃなくって、どれだけ直接、神様のみ心が
愛だということを信じてね、それが自分のものと
して、そうして難かしいけれども生きてゆけるか
ということなんです。

 だから、そこへ行くまでにね、五井先生、
五井先生辛いです、すいませんというのは、幾ら
言っても構いませんと、私言いましたでしょう。

 言わないとみんな大乗でやって行けないん
ですよね。例えば、南無阿弥陀仏でも、あれは
光明信仰でものすごくいい言葉なんで、南無
阿弥陀仏と世界人類が平和でありますように、
あるいは主の祈り、皆同じだけの救済力がある。
 同じ事なんですよ。

 だけれども、今この現代の中で、世界人類が
平和でありますようにという方が
分かり易いでしょう。

 今現在、私たちがこの世界の中に生きていて、
人類の一人なんだし、そして、人類が我々が
平和であるように、平和に生きて行けるように
というのは、我々人間の念願なんだし、本願
なんだし、しかし、その本願をつくったもの、
念願を生み育てたもの、それが何かというと、
それは神様なんですね。やっぱり。

 神様の根っこに我々は深く入って行って、
そして、そこから生命の声を出して行かないと、
祈りの声を出して行かないとだめなんです。

 そういう意味で、私は、世界人類が平和で
ありますようにという、あの世界平和の祈りの
中にも、五井先生と言う唱名ランニングの中
にも、それは全部一つであって、どれを
唱えようと唱えまいと、五井先生というのは、
どこをどうとっても五井先生に辿り着くんだ
ということを、この際覚えていただいて置いたら、
大変良かろうと思います。
              昭和63年7月22日


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