註(平成2年当時)
(問)白光誌に支部集会所の案内が無くなる
ということで、反対の声がかなりあるのですが。
なくなると非常に不便になりますし、白光誌の
在り方からいうと、ちょっとおかしいのでは
ないかと思いますが、継続してもらいたい
という、それ位の意見は言っても
よいでしょうか。
(答)言わなきゃ駄目。言わなきゃ駄目と
いうのは本部を痛めつけるとかいうのでは
なくて、いかに一人一人の心が大事かという
ことが分かってないんです。中央は分かり
難いんですよ。何故かと言ったら、皆人が
集まって来るでしょう。聖ヶ丘統一会、富士の
みそぎの会だというと皆来たいから、沢山の、
何百人何千人という人が来ますよ。だから、
あそこにいる人はみんな、ああ祈りの場所
だということで感激するんだけれど、実は
一人一人が個人にかえった時に、私は
こんなに病気で苦しんでいるとか、そういう
苦しみというものがつい忘れてしまうん
ですよね。見ようとしないのね。
ところが、あの集会の連絡所という風にして
名前と電話番号を、昔は住所も書いていた
けれども、それを記載していると、そういう
声が届いてくるんです。支部集会というものを
通じて本部にも行くんです。こういう人がいる、
こういうケースがあるがどうしようかと。
心ある自分の尊敬する講師の先生方に、
実はこういう人がいるんですけれど、こういう
時には先生どういう風にお浄めなさるん
でしょうか、どういう個人相談をと、こういう
ことはあったんです。ところが、あれを
無くしてしまうということになると、人間が
どういう風に悩んで生きて苦しんでという、
一番根本のところが分からなくなるんですよ。
だから、一旦廃止させますけれど、廃止
させたら今度は本部の方が混乱してしまうん
です。何故かというと、己れ尊しに
なっちゃって、そこのところで人間の心が
分からなくなるからね。そこで、教科書通りの、
五井先生はこう言っていらっしゃいました、
昌美先生はこう言ってらっしゃいますという、
字句通りの解釈になってしまう。
人間というものはそんなものじゃない。そんな
単純なものじゃないから、百の悲しみがあれば
百の背景がある訳で、そこのところを、もう一度、
そんなものじゃありませんよという風に、
神様の方から言っていただくには、一回あれを
廃止して、不便だとか不満だとかいう声を
憤然と出させないと、何が祈り心で何が宗教か
ということが分からなくなっていますから、一回
廃止させないと駄目なんですよ。
そういうお役目の人がいたんですよ。被害を
受けて何十万も持っていかれたとかね。毎日
毎晩いたずら電話がかかって迷惑だとかね。
あったんです。あったんですけれど、そんな
ことではいけないんですけれどもね、でも
それは不心得だと言う前にやっぱり本部が
音痴になって、地方にいるものが音痴になって
いるというのを、今どうやって道路工事をして
直させようかなという結果が、ああいう一つの
荒療治に出た訳で、向こう側からみれば
荒療治なんですよね。
中央の方で何も地方の声が分からない
というんじゃない。そのつもりではない訳で、
中央の方は汲みとろう汲みとろうとして、
自分で出来ていると思っているけれど、実は
汲みとってない訳だから、そこのところが
自主性がまだ弱いですよ、まだ出来てませんよ
というのを、こっち側からつつくという脚本
なんですね。
(問)すぐに出した方が良い訳ですね。
(答)幹事会や何かで言っていただいて
いいです。本部に支部から言ってもらっても
構いません。又、ブロック幹事会があるのなら、
そういう皆が集まる場所で、実はこういう
弊害があるだろうけれども、実際考えてみると、
これはとても不便で、一般に白光を知らない
人にも、五井昌久という人はどういう人間
だとか、神様というのは何だというのを
知りたいという人を増やしてゆくには、
支部集会の案内、電話の案内、名前の案内、
それを無くしてしまうということは
ものすごく不親切、一番不親切なんだという
ことを、そういう場所で堂々と出していただく
ことが一番いいことだと思います。どんどん
発言して下さい。
(問)本部の理由づけの中で、五井先生が
個人のプライバシーを一番だと言われたと
どうのこうのとありますが。
(答)そうでも言わなきゃどうしようも
ないでしょうね。
今は居ないんだからね、死人に口なしだから
死人は弱いですよね。立場はね。
(問)白光誌に支部集会所の案内が無くなる
ということで、反対の声がかなりあるのですが。
なくなると非常に不便になりますし、白光誌の
在り方からいうと、ちょっとおかしいのでは
ないかと思いますが、継続してもらいたい
という、それ位の意見は言っても
よいでしょうか。
(答)言わなきゃ駄目。言わなきゃ駄目と
いうのは本部を痛めつけるとかいうのでは
なくて、いかに一人一人の心が大事かという
ことが分かってないんです。中央は分かり
難いんですよ。何故かと言ったら、皆人が
集まって来るでしょう。聖ヶ丘統一会、富士の
みそぎの会だというと皆来たいから、沢山の、
何百人何千人という人が来ますよ。だから、
あそこにいる人はみんな、ああ祈りの場所
だということで感激するんだけれど、実は
一人一人が個人にかえった時に、私は
こんなに病気で苦しんでいるとか、そういう
苦しみというものがつい忘れてしまうん
ですよね。見ようとしないのね。
ところが、あの集会の連絡所という風にして
名前と電話番号を、昔は住所も書いていた
けれども、それを記載していると、そういう
声が届いてくるんです。支部集会というものを
通じて本部にも行くんです。こういう人がいる、
こういうケースがあるがどうしようかと。
心ある自分の尊敬する講師の先生方に、
実はこういう人がいるんですけれど、こういう
時には先生どういう風にお浄めなさるん
でしょうか、どういう個人相談をと、こういう
ことはあったんです。ところが、あれを
無くしてしまうということになると、人間が
どういう風に悩んで生きて苦しんでという、
一番根本のところが分からなくなるんですよ。
だから、一旦廃止させますけれど、廃止
させたら今度は本部の方が混乱してしまうん
です。何故かというと、己れ尊しに
なっちゃって、そこのところで人間の心が
分からなくなるからね。そこで、教科書通りの、
五井先生はこう言っていらっしゃいました、
昌美先生はこう言ってらっしゃいますという、
字句通りの解釈になってしまう。
人間というものはそんなものじゃない。そんな
単純なものじゃないから、百の悲しみがあれば
百の背景がある訳で、そこのところを、もう一度、
そんなものじゃありませんよという風に、
神様の方から言っていただくには、一回あれを
廃止して、不便だとか不満だとかいう声を
憤然と出させないと、何が祈り心で何が宗教か
ということが分からなくなっていますから、一回
廃止させないと駄目なんですよ。
そういうお役目の人がいたんですよ。被害を
受けて何十万も持っていかれたとかね。毎日
毎晩いたずら電話がかかって迷惑だとかね。
あったんです。あったんですけれど、そんな
ことではいけないんですけれどもね、でも
それは不心得だと言う前にやっぱり本部が
音痴になって、地方にいるものが音痴になって
いるというのを、今どうやって道路工事をして
直させようかなという結果が、ああいう一つの
荒療治に出た訳で、向こう側からみれば
荒療治なんですよね。
中央の方で何も地方の声が分からない
というんじゃない。そのつもりではない訳で、
中央の方は汲みとろう汲みとろうとして、
自分で出来ていると思っているけれど、実は
汲みとってない訳だから、そこのところが
自主性がまだ弱いですよ、まだ出来てませんよ
というのを、こっち側からつつくという脚本
なんですね。
(問)すぐに出した方が良い訳ですね。
(答)幹事会や何かで言っていただいて
いいです。本部に支部から言ってもらっても
構いません。又、ブロック幹事会があるのなら、
そういう皆が集まる場所で、実はこういう
弊害があるだろうけれども、実際考えてみると、
これはとても不便で、一般に白光を知らない
人にも、五井昌久という人はどういう人間
だとか、神様というのは何だというのを
知りたいという人を増やしてゆくには、
支部集会の案内、電話の案内、名前の案内、
それを無くしてしまうということは
ものすごく不親切、一番不親切なんだという
ことを、そういう場所で堂々と出していただく
ことが一番いいことだと思います。どんどん
発言して下さい。
(問)本部の理由づけの中で、五井先生が
個人のプライバシーを一番だと言われたと
どうのこうのとありますが。
(答)そうでも言わなきゃどうしようも
ないでしょうね。
今は居ないんだからね、死人に口なしだから
死人は弱いですよね。立場はね。