昔、まだシングルだったとき早々に結婚し、子供を産んだ
友達と話していると、話題は子供のことに終始し、最初は微笑ましく
聞いていたけれど、段々と
(自分の話ってないのかなぁ…。主体が自分でなく子供なんだなぁ…。
お母さんってみんなこうなのかなぁ…)
なんて思ったりしていた。
って今まさに私がそうなんだけどぉ…って思う。
人間その立場になってみないとわかんないことってあるよなぁ…ってことで。
昨日お風呂に入っているとき、娘と国語の教科書の話になった。
今時の小学校では音読が毎日宿題で出される。
毎日、毎日同じ話を読む方もたいへんだけど、毎日毎日同じ話を聞かされる
方もたいへんだ。
で、そろそろその単元に飽きてきた…って話を前日にしていたので娘が
「今日から新しいところ読むよ。」と教えてくれた。
確か『てがみ』とかいう題名で、がまがえるとかえるの友達同士の話。
かえるががまがえるに手紙を出し、そこで『親友』という言葉を使う。
つい私が、
「○○(娘)の親友って誰?」と聞いた。
すると娘が
「ママ。」と答えた。
「ママはママだし、家族だし、一番大好きな人だけど、親友だよ。」と言う。
ちょっと照れるくらいうれしかったけど、ちょっと心が痛んだ。
娘は平日は学童保育に行っているので、友達とプライベートで遊ぶことがない。
しかし、土日もまったく遊ぶことがない。
このくらいのお年頃なら、学校で約束して互いの家や公園などで遊ぶことが
あるだろう。
でも娘は土日も私にべったりなのだ。
1つには娘の性格もあるだろう。
積極的に友達を誘うようなタイプでもなし、はしゃぐタイプではないので
友達同士のノリについていけてないような気がする。
もう1つには我が家の環境にあるのだと思う。
誰かの家に遊びに行くのなら、今度はうちにも…ってことになったとき
そうできないから…って思っているのだと思う。
だって、家には必ず彼がいるのだから…。
普通の家庭とは違うってことを娘は自覚しているのだろう。
まして、いつでも誰でも来ていいよっていえないくらい部屋が片付いていない
ことも多いし…。
ごく普通の両親といたら、そんな思いさせなくて済んだのかな…と思うと
心が痛んだ。
だから、
「そっかぁ…、ありがとう。
でも○○(娘)とママは親友でもあるけど、戦友でもあるよ。」と答えた。
「戦友ってなに?」と聞くので
「○○(娘)とママは一緒にパパの病気と戦っているから。
一緒に戦っている人同士を戦友っていうんだよ。」と答えた。
今、私の中に占める娘の存在はもしかしたら自分自身を凌駕するほど大きな
ものなのかもしれない。
友達を主体がない…などと思っていた時代には夢にも思わなかった。
そんな存在を得られた今の自分は、昔の自分よりお金も時間もなくなったけど
決して不幸ではないと思いたい。
彼が病気になって、彼とその病気に振り回されて、たくさんたくさん泣いたことは
不運ではあるけれど、不幸ではないと思いたい。
不運と不幸は違う。
不運とは自分には関係なくみまわれるものだし、不幸とは自分でなるものだ。
私は親友であり、戦友である娘と幸せになりたい。
まぁ…彼の存在は微妙であるが…。