6月26日、19時から山大名誉教授 伊藤清郎氏による
講座が公民館で開かれた。勉強した一部分を下に記す。
古代、貞観15年(873)酢川温泉神が正六位上から
従五位下に昇格したと「日本三代実録」に出てくる。
蔵王の呼称は「わすれずの山」といい、歌枕になる
霊峰だった。
蔵王修験を構成する重要な一つに龍山信仰がある。
貞観9年(867)、最上郡の霊山寺が、鎮護国家と調伏をする寺、定額寺となり、位置は山形市瀧山麓、
山形市長谷堂滝山付近、天童市水晶山麓などの説がある。
11世紀初め、藤原公任撰「和漢朗詠集」の私注を、応保元年(1161)に信阿が「出羽最上郡龍山寺」にて
著す。この寺には私注をかけるほどの関係テキストが
所蔵され、それを駆使して私注を著述できる文化人がいた。
龍山信仰の基層には、水神・作神信仰がある。
瀧山を源流とする小河川を農業用水として利用して
田地を開発・維持している瀧山麓を中心とした信仰。
酢川温泉神社は、現在瀧山を本宮、熊野岳を離宮とした
三位一体の神社だと主張。本来瀧山山頂には、薬師如来が勧請され祭神を瀧山権現としていた。
明治11年高湯(蔵王)温泉側が瀧山山頂を酢川温泉神社の奥の院と主張し、酢川温泉神社と改称したため。
岩波に文政3年(1820)の「蔵王・瀧山供養」碑が建っている。
文和2年(1353)から23年間、岩波の石行寺(しゃくぎょうじ)で写経事業が行われている。
経本は経櫃に100巻を入れ全部で6櫃あった。
現在は折本114巻が保存され、南北町の戦乱で飢渇する民衆を見て、戦乱のない平和で安穏な社会になるよう祈念したのである。
奥書に見える粟生田は青田、蒔田は前田、そして
桜田かく郷は、龍山の仏教文化や信仰を支える山麓の
宗教集落として存在。
上桜田・青田・元木などには条里制が確認され、
瀧山を源流とする小河川を利用して、早くから
田地が開かれ、村落も形成されていた。
瀧山の語源は「霊のこもった山」から来ており
以前は「霊山」と言われていた。
西蔵王高原、西蔵王牧場の近くには、かつて三百坊があり、1200年前には山岳信仰の瀧山寺(霊山寺)を中心に数百の宿坊があり国分寺に次ぐ格式の定額寺であったと言われている。
西行は1140年頃、この地で次のような歌を残している。
たぐひなき
思ひ 出羽の桜かな
薄くれなゐの
はなのにほひは
記事が一部重複したが
最後まで眠らず聴講した。
講義を受けた人100人以上。
思いの外の人気だった。
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