百花繚乱の鎌倉仏教の中で、他宗派より後塵を拝した「日蓮宗」は、消え去ることのないよう既存の教団を批判する必要があった。
四箇格言というものがある。
・真言密教は国を滅ぼす教えである
・禅宗は天魔のなせる業である
・念仏を称える者は無間地獄に堕ちる
・律宗は人を惑わす国賊である
このように過激に他宗派批判を行なったが、天台宗だけは批判していない。それは自分の出身母体と同じで、「法華経」を奉ずる宗派だったから。
日蓮の生きた時代は、時の権力者・北条時頼を初め
臨済宗が主流だった。
ましてこれだけ他宗派を批判したならば、何も起こらないはずがない。
日蓮が「立正安国論」を幕府に提出し、当時起こっていた異常気象、疫病、飢饉、元寇などは
全て念仏や禅などの邪教が流行ったからによるもので、直ぐに宗教政策を法華経のみに変更すべし、と主張した。
その一ヶ月後日蓮の草庵は襲撃され、焼き討ちを喰らったのである。
その後日蓮は伊豆に流された。
二年後許されて安房の国に戻る途中念仏信仰者に襲撃され、負傷し弟子が殺害された。
それでもめげずに自己主張し続けたので、ついに
幕府に捕縛され、江ノ島の龍ノ口刑場で斬首されることになった。
丁度首を切られようとした瞬間、満月のような発光体が飛んできて、処刑人の目を眩ませた。さらに手にもった刀は3つに折られて使い物にならなくなった。
この不思議な出来事から処刑は中止され、かわりに
佐渡島に流された。その後も何度も襲撃されたが
自分の主張を曲げようとはしなかった。
法華経の「勧持品第十三」に次のようにある。
「お釈迦様が滅した後に、恐怖の悪世がやってくる。
われらは、この法華経の教えを広めなければならない。だが、もろもろの無知な人はひどい悪口を言うだろう。それどころか、刀や杖で襲ってもくるだろう。
それを耐えなければならない。世間から尊敬されている聖者までがわれらに迫害を加えてくる。悪鬼に取りつかれた者が、われわれを罵り、辱しめるだろう。
しかしわれわれは釈尊を敬信して忍辱の鎧を着よう。
この教典を説くために困難を忍ぼう。われわれは命を惜しまない。この最高の教えが失われることだけを惜しむものである・・・」
聖徳太子が記したとされる「予言記」にしかり
ノストラダムスの大予言にしかり
人々や民衆は予言というものに弱い。
彼は二度目の元寇、弘安の役を予言した。
弾圧にあうことが正義の証であるように、いつしか日蓮の信者は増えていった。
1536年、比叡山の僧侶が日蓮宗の坊さんに論争で敗北するという屈辱を味わう。
また、地子銭という税金要求を日蓮宗側が拒否した
ため、「天文法華の乱」が勃発することになる。
比叡山の天台宗側は、円珍の園城寺(三井寺)や
空海の東寺(教王護国寺)、藤原鎌足、不比等らの氏寺・
法相宗の興福寺、そして六角氏らを見方につけ、
総勢6~15万の勢力で日蓮宗側を攻撃した。
法華信者21ヵ所の本山を焼き討ちして、京都一帯が火の海に化した。
この乱で日蓮宗は大打撃を受けたが
次第に屈強な教団になっていった。
こんにち、「日蓮系」を標榜する宗派と団体は
日本の宗教団体の3分の1近くを占めるようになったのである。
日蓮正宗や法華宗という分派がいくつかあり、創価学会、霊友会、立正佼成会などがある。
過去、多数の日蓮信者が存在した。
長谷川平蔵、近松門左衛門、本阿弥光悦、尾形光琳、葛飾北斎、十返舎一九、遠山金四郎、加藤清正、宮沢賢治などである。
最後に日蓮宗の信徒さんは「南妙法蓮華経」という題目を唱える。
蓮華の花は、泥の中から茎を伸ばして咲くことから
泥を現世の苦しみに例えて、現世の苦しみから昇華して仏になるという象徴なのだそうだ。
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