僕の感性

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世阿弥の紆余曲折

2009-08-28 22:27:50 | Weblog
観阿弥・世阿弥の親子は足利三代将軍の義満の寵を得て、能を大成しました。
観阿弥・世阿弥の猿楽一座・観世座は全盛時代を迎えるのです。
猿楽はもともと物まねなどの滑稽芸を中心に軽業や手品、曲芸、呪術など多岐にわたる芸能を行ないました。そののち世阿弥はさらに幽玄美を取り入れた能へと発展させます。

けれど義満没後、義持は田楽を重視した増阿弥を保護し、世阿弥は冷遇されてしまいます。田楽は、豊穣を祈り笛太鼓を鳴らす賑やかな芸能でした。その中でも増阿弥は尺八の名手で、「冷えたる美」を実践しました。

さらに六代将軍義教の時代になると、世阿弥はあからさまに排除され始めます。義教は兄弟の義嗣と仲が悪く、義嗣の贔屓にしていたのが世阿弥の一座だったからです。義教は世阿弥の甥の音阿弥を重用し、世阿弥は都での能を演ずる機会を失ってしまいました。音阿弥はその芸風を「希代の上手」とか「当道に無双」と絶賛され、芸人としては世阿弥以上の人物でした。

世阿弥の長男、元雅が伊勢で死亡し、次男の元能も芸の道を捨て出家してしまいました。義教は世阿弥に後継者がいなくなった事を理由に、音阿弥に観世四世家元を継がせる事を強要してきました。世阿弥は大和で大活躍していた娘婿の金春禅竹に四世を譲るつもりでこれに抵抗しました。しかし将軍に謀反した重罪人として逮捕され佐渡に配流となるのです。

佐渡に配流された理由に別の説があります。長男の元雅が南朝と通じていた疑いがあるのです。元雅は、元能が出家した前後、大和国吉野の山中にある天河社に能を奉納していますが、吉野では南朝の後胤が鎌倉の公方らと反足利の同盟を結んでいました。また、元雅が死亡した伊勢は、南朝方の北畠氏の勢力地であり、これも南朝との関わりと考えられます。元雅が南朝の残存勢力と結び、何らかのはかりごとに関わっていたならば、父である世阿弥があれほどの罪に問われたのも不思議ではないですよね。

世阿弥は、後に配流を解かれ、大和の戻り、八一歳まで余生を送ったそうです。

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