わたくしの名は夏子、戸籍上は奈津。明治五年三月二十五日(新暦5月2日)に、東京で生を受けました。
明治16年小学高等科の時、首席で学校をやめました。女子に学問は不要との母の意向に添ったためですが。
母の目を逃れて土蔵の薄明かりで草双紙を読み耽ったため、ひどく目が悪くなりました。
ただ学問に執着心があったので、理解を示した父が中島歌子先生の歌塾(萩の舎)の入門を許してくれたんです。
わたくしは、後に早稲田専門学校(早稲田大学)の校長になる渋谷三郎さんと婚約をしておりました。
ただ、十七の時、父が借財を残して死んでしまいます。
明治法律学校を中退し、大蔵省出納局に勤めていた長兄の泉太郎は肺結核ですでに世になく、わたくしが一家の長となり、老母と妹の女世帯を継ぐことになりました。
渋谷三郎さんは、私の戸主としての苦労を避けるため、婚約を解消してきました。
歌では食べていけないので、人の紹介で半井桃水に小説を教わり、彼が主催した『武蔵野』に短編『闇桜』を発表し、作家としての一歩を踏み出すことができました。
けれど、独身で好男子の半井さんに教わるということは、あらぬ噂をたてられかねないと、中島歌子先生に彼から離れるよう説得され、残念な気持ちもありますが縁を切りました。
明治25年、『うもれ木』を文芸誌『都の花』に掲載されて、はじめて原稿料十一円七十五銭得て、一年で他の作品と合わせて三十五円になりましたが、生活費にはまだまだ足りませんでした。
そこで、荒物屋や駄菓子屋を始めましたが、困窮生活にはかわりなく、老母と妹とはいさかいが絶えませんでした。
明治28年、『たけくらべ』、『にごりえ』を発表。『十三夜』と共に、最大傑作と評価され、有り難いと思いました。
明治26年、樋口一葉とペンネームに定めましたが、
私の肖像が刷られている五千円を手にすると、みんなすぐ買い物してくずしたり、両替したりするのは悲しいことです。
そこまでわたくしの苦労にあやかりたくないということでしょうか。
当時不治の病と言われた肺結核で若くして死んでしまいましたが、特効薬さえあれは、もっともっと活躍して一万円札に登用されたに決まっています。
けれども、2024年、私のお札としての役目も終わるようですね。努々(ゆめゆめ)わたくしのことを忘れないでくださいね。
最後に、大正七年に博文館から出版された『たけくらべ』の初版本を紹介します。ついでに一葉全集もご覧くださいね。
博文館刊行、大正7年初版発行の『たけくらべ』真筆版
信如が格子に挿した造花の水仙を物憂げに眺めている美登利
縮刷一葉全集大正13年発行
函、本冊、背の部分
見返し
扉絵
三段目の左から3人目がなつ
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます