山門の手前の自性院境内、門を入ってすぐ右にあります。ここの門も改築中でした。境内も、以前にはなかった大師像などが出来、平賀源内の墓の横には「源内さんの墓」と立て札が立っています。平賀源内遺品館は1kmほど高松よりの場所にあります。
大師堂は屋根の葺き替え工事中でした。
仁王門は寛文10年、藩主松平公により建立されたもので三つ棟木の工法が使われ日本3大名門の一つといわれています。仁王門の金剛力士像は運慶の作といわれ、長曽我部軍が志度に侵攻したとき、仁王門の前で馬が動かなくなり金剛力士像から後光がさしたといわれ、伽藍の焼き討ちを止めたといわれています。
仁王門は寛文10年、藩主松平公により建立されたもので三つ棟木の工法が使われ日本3大名門の一つといわれています。仁王門の金剛力士像は運慶の作といわれ、長曽我部軍が志度に侵攻したとき、仁王門の前で馬が動かなくなり金剛力士像から後光がさしたといわれ、伽藍の焼き討ちを止めたといわれています。
八栗寺から国道11号に出て約8km、案内板を目印に左折すると海岸のすぐそばの志度寺に着きます。
藤原鎌足の息子不比等は唐の皇帝妃である妹から宝珠を送ってきましたが、志度湾で龍神に奪われたので、それを探すためこの地を訪れ、海女と夫婦になり一子房前をもうけ、妻が命と引き替えに宝珠を取り戻しました。不比等は妻の墓と堂宇を建て死渡道場と名付けました。その後、持統天皇の時代、房前は行基と共に訪れ母をとむらい伽藍を建立し、寺号を志度寺としたということです。
藤原鎌足の息子不比等は唐の皇帝妃である妹から宝珠を送ってきましたが、志度湾で龍神に奪われたので、それを探すためこの地を訪れ、海女と夫婦になり一子房前をもうけ、妻が命と引き替えに宝珠を取り戻しました。不比等は妻の墓と堂宇を建て死渡道場と名付けました。その後、持統天皇の時代、房前は行基と共に訪れ母をとむらい伽藍を建立し、寺号を志度寺としたということです。