15日 日が変わろうという深夜に、父は旅立ちました。
(15日夕暮れ)
その日は、ひよこ家がお見舞いに行く予定でした。
おっきいおじーちゃんが、だいぶ前に王子と姫におもちゃを用意していたのです。
おっきいおじーちゃんから、もらわなくちゃね~♪
そんな朝、状態が悪いと連絡がありました。
あわてていたら、持ち直したと。
全員病院に集合して、枕元に並べたおもちゃを王子と姫は「ありがとう♪」と言っていただきましたよ(^^)
病院からは、今夜は大丈夫だろうから、明日朝早くおいでくださいということで、いったんみんな帰りました。
でもその晩遅く スッと出かけていきました。
きっと最後の気がかりであったろう、ひ孫たちにおもちゃを渡せたし、「じゃあ 行くか」と思ったに違いありません。
(16日早朝)
生前の功があったのでしょう。
おそらくご先祖様が勢ぞろいで、お迎えに来たのではないでしょうか。
お前はおっちょこちょいだから 盆なら命日も忘れないだろう(^^)
そんな声が聞こえてきます。
まぁ ね(^^;;;
夏のお盆と言うのもありだけど、きっとママちんが8月はイベントだらけで稼ぎ時なのも、きっと知っていて7月を選んだかな?
本当に家族周囲のことを、さりげなくも最優先に考える人でしたから。
(葬儀は田園調布の密蔵院にて)
圓明院崇山敏信清居士
田舎の菩提寺から、お添えを連れてご住職が来てくださいました。
ご住職が小さな頃から、父は見守ってきました。
「いらっしゃる時には、いつも私にもお土産を持ってきてくださったのですが、成長に合わせた仏様の逸話などの本をくださいました。」
崇山の字は今まで永きに渡ってお寺に尽くしてくださったのでと、最高位の戒名をつけてくださいました。
仏様たちに、父の生前の功績を報告なさっているのを聞いて、さすがに涙が出てきました。
お二人の読経の声は、深く響き渡って、本当に見事に立派でした。
よかったねー。
戦友会も、会社のOB会も、父の姉妹(4人の姉と妹一人の長男)も、すでにほとんどが鬼籍に入っています。
だからさほどの会葬者もないだろうと思っていましたが、予想より多くの方がいらしてくださいました。
昔の部下の方がお二人、まだお元気で精進落しまで付き合ってくださいました。
「会うのは、40年ぶりですよ。」
でも、私のことはすぐに分かったと。
父の頃は、良い時代でしたよね。
戦後の急成長の時期で、終戦後はまだ小さな会社だったのが、みんな一丸になってがんばった。
がんばればかんばるほど成果があって。
尾道だ 藤沢だと、次々工場ができて、色々な部門が増えて、働き甲斐がありましたよね。
なんだか、その当時の人たちが全員でスクラム組んで、こう どんどんと上にあがっていった気がします。
本当に、良い時代でしたよね。
そうそう ○○さんには、本当にたくさんのことを教えてもらいました。
この年で働いていられるのも、○○さんのおかげなんです。
儲かったのを上手に繰り入れるのも、経理の腕だと言ってね(^^;;
(今で言う 粉飾決算?笑)
細かいばかりじゃだめだと。
要所をきちんと押さえながら、どんぶり勘定的なところもありましたね。
私はその部分だけ受け継いで、どんぶり勘定どころか、ザル勘定。
もっとも、すでにザルの底が抜けて枠だけですけど(^^;;
アハハハ
でも 怖かったんですよー。
えーーー? そうなんですか?
でも 今でも○○さんの時のメンバーだと言うのが、僕たち何よりも誇りなんです。
そうなんですか。
そんなに言っていただけるのは、本当にうれしいです。
あの当時、経理部はみな仲が良かったですよね。
大島に旅行に行ったり、中津川にバーベキューに行ったり。
ええ、良く行きましたよね。
お正月には、うちに皆さん集まってくださったでしょう?
あの時は、普段の父の顔じゃないので、子供心に父の違う一面を見た思いがあります。
何しろ お酒は家では一滴も飲まない人ですから。
お酒は好きではなかったですね。
えー!!(@@) そうなんですか?
ご一緒の時は、かなり飲んで、強かったですよー!
数年前も、ご一緒に飲んだ時、帰りを心配したら「年寄り扱いするな!」って怒られましたっけ。
小さな頃の父との写真を持っていました。
これ 東門前の社宅ですよね?
私の一番好きな写真なんです。
(@@) こんな顔 見たことないですよ!!
こんな顔するんだぁ~。
ギロってにらまれるとね、すくみ上がるほど怖かったんですよ(^^;;
いやー 意外な面を知りました。
私たちには、いつもこの笑顔ですよ。
本当に子煩悩でした。
私たちはそれぞれ年が離れていますから、全員父の懐で育ったんです。
寝るのも一緒で、こう 懐に抱え込んで、冬は父の足の間に足を突っ込んでね。
子供が本当に好きでしたから、ひ孫ができて喜んでいました。
へぇ~~~(@@)
まったく想像もできませんよ。
どうやら、会社ではかなり怖い存在だったようで(笑)
その割りに、皆さんいつも一緒に遊びに行ったし、家にも集まったし。
私の母が亡くなった時も、皆さん全員ですべてやってくださった。
日本の高度成長期の第一線にいた人たちですから、本当に仕事が面白くて遣り甲斐あったことでしょう。
だからこそ、団結力も強かった。
本当に良い人生を送ったものだと、つくづく思います。
当時の方たちも、ほとんどおられないでしょう?
そうですねー。
Oさんも Kさんも Yさんも、確か社長のYさんも亡くなられていますよね。
(当時の父の同僚、来てくださった方の上役の人たち)
Oさんは、ご存知だったんですか?
Oさんは、第二の父でしたから(^^)
よくお風呂屋さんに連れて行ってもらいました。
実は、Oさんも母が好きだったんですが、結局父と結婚して(笑)
社内結婚第一号だったんですよね。
え?そうだったんですか?
知らなかったなぁ(笑)
父の亡くなる時の話をして
お盆に行ったと言うのも、父らしいかなって。
お前はおっちょこちょいだから、お盆なら忘れないだろうって。
いかにも言いそうだと思いません?
確かに、言いそうですねぇ!(爆)
本当に久しぶりに、昔の部下の方たちにお会いして、お互い父の知らない一面を知ったりして、とても楽しかったです。
こういう時、昔の写真があると、話が盛り上がりますよ。
いとこたちには、父が持っていた昔の写真を見せて、それぞれの両親の分は持っていってもらいました。
モノクロの写真は、それだけで昭和初期の香りがして、昔の家や場所、あんなことした、こんなだったよね、って話が盛り上がります。
一人なかなか美しい娘さんの写真がたくさん残っていたのですが、いったいおばたちの誰かが分からなかったものがありました。
一番上のいとこが「これ安子おばさん」と、教えてくれました。
安子おばは、東京大震災のときに祖父と一緒に亡くなった人です。
聡明で絵の上手な人だったと聞いてはいましたが、もっと若くして十代の頃に亡くなったのだと思っていました。
背が高く、着物をすらっと上品に着こなして、本当に美人さん。
実家の仏壇に位牌はありましたが、おかげでもっと身近になりました。
いとこたちとも、むかし田舎で法事をした時のあれやこれやで、話は盛り上がり。
あんなきれいな蛍は、なかったね。
田んぼがとても美しかった。
ヒルに吸われながら、用水路で魚を取ったよね。
あの時、ドジョウをさばいて、うなぎだって言って食べさせたでしょう!
アハハ そうだっけ(^^;;;
ホタテを沢山持ってきてくれたことがあったでしょ?
ああ あの時は沢山集まるからって、漁師に言ってバケツ一杯もって行ったんだよ。
(この話は後日談がありまして、以降30年近く「ホタテはもう沢山!」状態になったかーさんです:笑)
以上は父方のいとこ達と。
実は、私の父方と母方のいとこ同士が結婚したカップルがいるので、母方の話も出ます。
ほら これ十和田の家。
あらぁ そうだわ。 あそこのソファに、熊の毛皮があったのよね。
知ってた? 実はあれ、一匹は白熊で、もう一匹はツキノワグマ。私のお友達だったの。
他に、襟巻きの狸がお頭手足つきであってね、それがぬいぐるみ代わりだったの♪
えーーー 私は頭も手足もあって、気持ち悪かったわ。
あの裏に奥入瀬の支流があったじゃない? この胡桃の木の後ろ。
池も二つあって。
うん この胡桃の横に、シバグリの木があったの。
その手前にアスパラがあってね、その前にりんごと洋ナシの木。
裏の川から、水路を引いて、台所の下を通って表の池につながっていたでしょ?
そこから道路側の小川につながっていた。
トトロのね 映画を見た時に、出てきた家の様子があまりにも十和田の家に似ていて、本当にびっくりした。
そうそう 池に大きな鯉が沢山いたわよね。
もうひとつは、養殖池よ。
私が遊びに行くと、おじーちゃんがヒメマスの稚魚を放してくれて、それを世話したの。
白色レグホンをこうずらっと並べてね、毎朝卵をとるの。
あそこは、私の聖地なの。
今でもあそこの敷地の見取り図が描けるのよ。
お盆に父が迎えに来ても、「おとーちゃまもおかーちゃまも帰っていいよ。私は帰らない」って駄々をこねたもの(笑)
父のおかげで、昔の思い出話を沢山することができました。
弟たちは、当時の様子を小さすぎて覚えていないか、まったく知らないかで、ちょっとかわいそう。
でもそれぞれにも、父の思い出は沢山あるはず。
一人一人が、父の思いが沢山胸に詰まっています。
私は父の子に生まれてよかったと思い、また父の子に生まれようと思っていますが、きっと弟たちも同じ。
もっとも 父は「何で金魚の糞みたいにくっついてくるんだ」って、言いそうですけどね(^^;;
昨年来、徐々に食欲が減って、食べなくなり。
その姿に、正直「ああ もう体が店じまいしているんだな」と思っていました。
今まで身内との別れをいくつか経験し、動物たちと数多くの別れを経験していると、なんとなく気配が分かります。
死に慣れることはありませんが、いたずらに追うこともありません。
ですから、別れの覚悟も、納得もしていたので、お式の時にはすでに心の中で昇華できていました。
ましてや、ご先祖様が迎えにきたのでしょうから、「さて そろそろ行くか」と思い切りよく出かけたと思っています。
そのあたり、下町っ子ですから潔い。
私も、きっとノンやウサギたちが迎えに来るでしょうから、潔くかるーく出かけて行きたいものだと思いますよ。
だから、旅立った父にかける言葉は一つ。
おとうちゃま ありがとう またね♪♪
(多摩川六郷土手にて。毎週日曜はハゼ釣り。帰りは釣具屋さんで竿鑑賞で、夕食はてんぷらが定番:笑)
(15日夕暮れ)
その日は、ひよこ家がお見舞いに行く予定でした。
おっきいおじーちゃんが、だいぶ前に王子と姫におもちゃを用意していたのです。
おっきいおじーちゃんから、もらわなくちゃね~♪
そんな朝、状態が悪いと連絡がありました。
あわてていたら、持ち直したと。
全員病院に集合して、枕元に並べたおもちゃを王子と姫は「ありがとう♪」と言っていただきましたよ(^^)
病院からは、今夜は大丈夫だろうから、明日朝早くおいでくださいということで、いったんみんな帰りました。
でもその晩遅く スッと出かけていきました。
きっと最後の気がかりであったろう、ひ孫たちにおもちゃを渡せたし、「じゃあ 行くか」と思ったに違いありません。
(16日早朝)
生前の功があったのでしょう。
おそらくご先祖様が勢ぞろいで、お迎えに来たのではないでしょうか。
お前はおっちょこちょいだから 盆なら命日も忘れないだろう(^^)
そんな声が聞こえてきます。
まぁ ね(^^;;;
夏のお盆と言うのもありだけど、きっとママちんが8月はイベントだらけで稼ぎ時なのも、きっと知っていて7月を選んだかな?
本当に家族周囲のことを、さりげなくも最優先に考える人でしたから。
(葬儀は田園調布の密蔵院にて)
圓明院崇山敏信清居士
田舎の菩提寺から、お添えを連れてご住職が来てくださいました。
ご住職が小さな頃から、父は見守ってきました。
「いらっしゃる時には、いつも私にもお土産を持ってきてくださったのですが、成長に合わせた仏様の逸話などの本をくださいました。」
崇山の字は今まで永きに渡ってお寺に尽くしてくださったのでと、最高位の戒名をつけてくださいました。
仏様たちに、父の生前の功績を報告なさっているのを聞いて、さすがに涙が出てきました。
お二人の読経の声は、深く響き渡って、本当に見事に立派でした。
よかったねー。
戦友会も、会社のOB会も、父の姉妹(4人の姉と妹一人の長男)も、すでにほとんどが鬼籍に入っています。
だからさほどの会葬者もないだろうと思っていましたが、予想より多くの方がいらしてくださいました。
昔の部下の方がお二人、まだお元気で精進落しまで付き合ってくださいました。
「会うのは、40年ぶりですよ。」
でも、私のことはすぐに分かったと。
父の頃は、良い時代でしたよね。
戦後の急成長の時期で、終戦後はまだ小さな会社だったのが、みんな一丸になってがんばった。
がんばればかんばるほど成果があって。
尾道だ 藤沢だと、次々工場ができて、色々な部門が増えて、働き甲斐がありましたよね。
なんだか、その当時の人たちが全員でスクラム組んで、こう どんどんと上にあがっていった気がします。
本当に、良い時代でしたよね。
そうそう ○○さんには、本当にたくさんのことを教えてもらいました。
この年で働いていられるのも、○○さんのおかげなんです。
儲かったのを上手に繰り入れるのも、経理の腕だと言ってね(^^;;
(今で言う 粉飾決算?笑)
細かいばかりじゃだめだと。
要所をきちんと押さえながら、どんぶり勘定的なところもありましたね。
私はその部分だけ受け継いで、どんぶり勘定どころか、ザル勘定。
もっとも、すでにザルの底が抜けて枠だけですけど(^^;;
アハハハ
でも 怖かったんですよー。
えーーー? そうなんですか?
でも 今でも○○さんの時のメンバーだと言うのが、僕たち何よりも誇りなんです。
そうなんですか。
そんなに言っていただけるのは、本当にうれしいです。
あの当時、経理部はみな仲が良かったですよね。
大島に旅行に行ったり、中津川にバーベキューに行ったり。
ええ、良く行きましたよね。
お正月には、うちに皆さん集まってくださったでしょう?
あの時は、普段の父の顔じゃないので、子供心に父の違う一面を見た思いがあります。
何しろ お酒は家では一滴も飲まない人ですから。
お酒は好きではなかったですね。
えー!!(@@) そうなんですか?
ご一緒の時は、かなり飲んで、強かったですよー!
数年前も、ご一緒に飲んだ時、帰りを心配したら「年寄り扱いするな!」って怒られましたっけ。
小さな頃の父との写真を持っていました。
これ 東門前の社宅ですよね?
私の一番好きな写真なんです。
(@@) こんな顔 見たことないですよ!!
こんな顔するんだぁ~。
ギロってにらまれるとね、すくみ上がるほど怖かったんですよ(^^;;
いやー 意外な面を知りました。
私たちには、いつもこの笑顔ですよ。
本当に子煩悩でした。
私たちはそれぞれ年が離れていますから、全員父の懐で育ったんです。
寝るのも一緒で、こう 懐に抱え込んで、冬は父の足の間に足を突っ込んでね。
子供が本当に好きでしたから、ひ孫ができて喜んでいました。
へぇ~~~(@@)
まったく想像もできませんよ。
どうやら、会社ではかなり怖い存在だったようで(笑)
その割りに、皆さんいつも一緒に遊びに行ったし、家にも集まったし。
私の母が亡くなった時も、皆さん全員ですべてやってくださった。
日本の高度成長期の第一線にいた人たちですから、本当に仕事が面白くて遣り甲斐あったことでしょう。
だからこそ、団結力も強かった。
本当に良い人生を送ったものだと、つくづく思います。
当時の方たちも、ほとんどおられないでしょう?
そうですねー。
Oさんも Kさんも Yさんも、確か社長のYさんも亡くなられていますよね。
(当時の父の同僚、来てくださった方の上役の人たち)
Oさんは、ご存知だったんですか?
Oさんは、第二の父でしたから(^^)
よくお風呂屋さんに連れて行ってもらいました。
実は、Oさんも母が好きだったんですが、結局父と結婚して(笑)
社内結婚第一号だったんですよね。
え?そうだったんですか?
知らなかったなぁ(笑)
父の亡くなる時の話をして
お盆に行ったと言うのも、父らしいかなって。
お前はおっちょこちょいだから、お盆なら忘れないだろうって。
いかにも言いそうだと思いません?
確かに、言いそうですねぇ!(爆)
本当に久しぶりに、昔の部下の方たちにお会いして、お互い父の知らない一面を知ったりして、とても楽しかったです。
こういう時、昔の写真があると、話が盛り上がりますよ。
いとこたちには、父が持っていた昔の写真を見せて、それぞれの両親の分は持っていってもらいました。
モノクロの写真は、それだけで昭和初期の香りがして、昔の家や場所、あんなことした、こんなだったよね、って話が盛り上がります。
一人なかなか美しい娘さんの写真がたくさん残っていたのですが、いったいおばたちの誰かが分からなかったものがありました。
一番上のいとこが「これ安子おばさん」と、教えてくれました。
安子おばは、東京大震災のときに祖父と一緒に亡くなった人です。
聡明で絵の上手な人だったと聞いてはいましたが、もっと若くして十代の頃に亡くなったのだと思っていました。
背が高く、着物をすらっと上品に着こなして、本当に美人さん。
実家の仏壇に位牌はありましたが、おかげでもっと身近になりました。
いとこたちとも、むかし田舎で法事をした時のあれやこれやで、話は盛り上がり。
あんなきれいな蛍は、なかったね。
田んぼがとても美しかった。
ヒルに吸われながら、用水路で魚を取ったよね。
あの時、ドジョウをさばいて、うなぎだって言って食べさせたでしょう!
アハハ そうだっけ(^^;;;
ホタテを沢山持ってきてくれたことがあったでしょ?
ああ あの時は沢山集まるからって、漁師に言ってバケツ一杯もって行ったんだよ。
(この話は後日談がありまして、以降30年近く「ホタテはもう沢山!」状態になったかーさんです:笑)
以上は父方のいとこ達と。
実は、私の父方と母方のいとこ同士が結婚したカップルがいるので、母方の話も出ます。
ほら これ十和田の家。
あらぁ そうだわ。 あそこのソファに、熊の毛皮があったのよね。
知ってた? 実はあれ、一匹は白熊で、もう一匹はツキノワグマ。私のお友達だったの。
他に、襟巻きの狸がお頭手足つきであってね、それがぬいぐるみ代わりだったの♪
えーーー 私は頭も手足もあって、気持ち悪かったわ。
あの裏に奥入瀬の支流があったじゃない? この胡桃の木の後ろ。
池も二つあって。
うん この胡桃の横に、シバグリの木があったの。
その手前にアスパラがあってね、その前にりんごと洋ナシの木。
裏の川から、水路を引いて、台所の下を通って表の池につながっていたでしょ?
そこから道路側の小川につながっていた。
トトロのね 映画を見た時に、出てきた家の様子があまりにも十和田の家に似ていて、本当にびっくりした。
そうそう 池に大きな鯉が沢山いたわよね。
もうひとつは、養殖池よ。
私が遊びに行くと、おじーちゃんがヒメマスの稚魚を放してくれて、それを世話したの。
白色レグホンをこうずらっと並べてね、毎朝卵をとるの。
あそこは、私の聖地なの。
今でもあそこの敷地の見取り図が描けるのよ。
お盆に父が迎えに来ても、「おとーちゃまもおかーちゃまも帰っていいよ。私は帰らない」って駄々をこねたもの(笑)
父のおかげで、昔の思い出話を沢山することができました。
弟たちは、当時の様子を小さすぎて覚えていないか、まったく知らないかで、ちょっとかわいそう。
でもそれぞれにも、父の思い出は沢山あるはず。
一人一人が、父の思いが沢山胸に詰まっています。
私は父の子に生まれてよかったと思い、また父の子に生まれようと思っていますが、きっと弟たちも同じ。
もっとも 父は「何で金魚の糞みたいにくっついてくるんだ」って、言いそうですけどね(^^;;
昨年来、徐々に食欲が減って、食べなくなり。
その姿に、正直「ああ もう体が店じまいしているんだな」と思っていました。
今まで身内との別れをいくつか経験し、動物たちと数多くの別れを経験していると、なんとなく気配が分かります。
死に慣れることはありませんが、いたずらに追うこともありません。
ですから、別れの覚悟も、納得もしていたので、お式の時にはすでに心の中で昇華できていました。
ましてや、ご先祖様が迎えにきたのでしょうから、「さて そろそろ行くか」と思い切りよく出かけたと思っています。
そのあたり、下町っ子ですから潔い。
私も、きっとノンやウサギたちが迎えに来るでしょうから、潔くかるーく出かけて行きたいものだと思いますよ。
だから、旅立った父にかける言葉は一つ。
おとうちゃま ありがとう またね♪♪
(多摩川六郷土手にて。毎週日曜はハゼ釣り。帰りは釣具屋さんで竿鑑賞で、夕食はてんぷらが定番:笑)