こころの声に耳をすませて

あの結婚生活は何だったのだろう?不可解な夫の言動はモラル・ハラスメントだった…と知ったウメの回想エッセー。

透明な鎖

2006-05-14 22:54:03 | モラル・ハラスメント考
 穏やかな五月晴れの日、窓を開け放ち風を入れる。青い空の光を感じながら、好きな音楽をかけ掃除や洗濯をする。ずっと出してあったホットカーペットをやっとしまうことができた。外を歩くと、家々の庭やプランターには可愛い花々が咲き、目を楽しませてくれる。銀杏の大木から芽吹いた新芽がなんてきれいなんだろう。
 今の私は、何をしているときもいつもの私自身でいられる。私らしく感じ、私自身で考え行動している。もちろん、思い通りに行かないこともある。仕事も大変で、やっとこさ働いているときもある。それでも、それは私自身のしんどさであり、私の苦労だ。

 しかし夫と生活していた頃、私はまるで私らしさを失っていた。

 家の中では夫の顔色を窺い、夫の足音に耳をそばだたせて機嫌を推し量り、今日の夕食は無事に食べてくれるだろうかと震える日々。夫に話しかけるときは、不機嫌にならないようにタイミングを見極め、恐る恐る言葉を選ぶ。夫が大きな溜息を吐けば、なるべく目を合わせないように下を向いていた。そして意味不明のきっかけで突如爆発する怒りの地雷を踏まないよう絶えずびくびくし、卑屈になっている私は何なんだろう…私はどうしてこんな人間になってしまったのだろう…。私はよくそんなことを思っていた。
 家の中にいる私はまるで鎖につながれた奴隷のようだった。恐怖の大王様に使える奴隷。奴隷の私は、大王様の食事を用意するため買い物に出る。私の好みではなく、大王様の好きなもの、食べてくれそうなものを落ち着きなく探す。これぞといったメニューが頭に浮かばないとパニックになりそうになる。もう時間がないのに…!
 私の周りで買い物をしている親子連れや夫婦は、おしゃべりしたり笑ったりしながら品物を選んでいる。私は別世界の出来事を見るような目で彼らを眺めた。私は夫と言葉も光もない世界に生きているのだ。彼らとは隔てられた世界にいる私。自分が異星人のように感じた。

 そして私はこうしてひとりで外に出ているときも、透明の鎖につながれているようだった。家から長々と引きずって歩く透明の鎖。仕事に行くときも、買い物に行くときも私は透明の鎖につながれていた。ひとりで外に出るのだから、いつだって夫の元から逃げ出すことができたのに。他の人に助けを求めることだって、いつでもできたのに。わざわざ痛めつけられるとわかっていながら、足を引きずるようにして恐怖の大王様が棲む世界に戻っていった私。

 私は自分でも自分の行動が不思議に思えた。夫と結婚する前の私は、自分なりに生きてきたように思う。家から早く出たかった私は、就職してすぐに親元から離れ、10年近くひとり暮らしをしていた。自分で就職先も選び、少ない給料をやりくりしながらも、部屋のインテリアを手作りしたり、友人と旅行に行ったり、それなりに楽しんでいた。職場の人間関係はいろいろあったが、プライベートでは信頼できる友人も遊び仲間もいた。私は私なりの考えをもっていたし、苦手なタイプの人はいたが、必要以上に怯えたり卑屈になることもなかった。

 夫と結婚した後、夫のモラハラに打ちのめされる日々になっていくわけだが、何で私がここまで卑屈になってしまうのか、本当に情けなかったし自分でもわからなかった。私はもう少し意見を言ったり、話し合おうとしたりできる人間だと思っていたが、夫の前ではまったく萎縮していた。
 そして家の中では怯え小さくなっている私でも、職場に行くとそれなりに仕事をこなし、にこやかに接客をし、他の若い社員に指示をだしたり、上司と仕事の打ち合わせをし、業務を円滑に遂行させるための提案をしたりしているのだ。この私は何?そして家の中の私は何?
 私は1日の中の場面によって、180度変化する自分自身の矛盾した姿にも混乱した。

 『es(エス)』という映画がある。これは実際にあった大学の心理学実験の話しだそうだ。心理実験のためのアルバイトとして被験者が募集され、看守役と囚人役に振り分けられる。看守役は看守の横柄な態度を身につけ、それが演技でなく徐々に残虐さが染みついていく。囚人役はその役を演じていくにつれ、自身の精神自体がどんどん卑屈になっていく。刑務所内での状況と役割が人間を変えていくという、恐ろしい心理実験だ。
 私と夫の関係はこれに似ていた。夫のモラハラによる巧妙な攻撃。「おまえが俺を怒らせるんだ」あるいは「俺を怒らせないでくれ」「妻が努力してこそ夫も元気になるんだ」「家事をもっとしっかりやってくれ」…これは結婚生活において“妻”はこうあるべき、という型にはめこもうとし、世帯主である“夫”に気を遣え、という状況を作る。私は共働きなのだから、家事は協力してすればいいと思っていたが、夫の強力な圧力に沈黙せざるを得なかった。その中で私がいかに“ダメな妻・最悪の人間”で努力が足りないかを陰湿に主張し続ける夫によって、私は常に夫に取り入ろうと卑屈になり奴隷の役割になりきってしまったのだ。

 付き合う人やある状況によって、こんなにも惨めな自分になってしまうのかと骨の髄まで身にしみた体験がモラハラだった。


 恐るべきモラハラ。もう二度と透明の鎖に囚われたくはない。