ウマさんの気ままな行動日記(その2)

趣味の釣り・日帰り温泉・街道歩き・ウォーキング情報等を発信していきたいと思っています。コメント歓迎します。

成田街道を歩く 第4回(最終回) 佐倉宿から成田山新勝寺へ

2012年05月24日 | ウマさんの「成田街道」を歩く
2012年5月24日(木)


「成田街道を歩く」の第4回目(最終回)となるこの日は、佐倉宿から成田山新勝寺までの約12Kmを歩いた。

常磐線我孫子駅で成田線、終点成田駅で京成線に乗り換え、出発地の京成佐倉駅には、9時5分に到着。


この日は、最終回とあって、12名が集まった。
最後まで元気に歩くために、京成佐倉駅横の駐車場で、Uさん推奨のストレッチ体操で身体をほぐす。


前回は佐倉城址公園までだったので、その続きとして、佐倉市役所近くの成田街道(国道296号)交差点へ向かう。
少しばかり逆戻りだが、皆さん元気いっぱい余裕の笑顔だ。


成田街道(国道296号)を少し進むと、海隣寺があった。
海隣寺の名が示すように、かつてこの寺は海沿いの幕張に存在した、そうである。


千葉山海隣寺は、阿弥陀如来を本尊とする時宗の寺である。
幕張の海上に浮かんでいた金色に輝く阿弥陀如来像が引き上げられ、その像を安置するために、
千葉常胤により鎌倉時代前期に建立されたと伝えられている、とのこと。
この日の安全を祈願して、成田山を目指すことにした。


城下町だった佐倉の町には旧い蔵造りの家をあちこちに見ることができる。
成田街道新町三差路に旧家らしき建物があった。
「旧平井家」の提灯が下がっていた。
明治十九年(1886)の大火後に建てられたもの、だそうだ。


新町三差路を直進して右に曲がり、少し入ったところに、旧佐倉藩の総鎮守麻賀多神社まがたじんじゃ)がある。
”古くからこの地方の人々に「まかたさま」と親しまれ、崇敬されてきたお社”ということで、
旅の始めに皆の無事を祈願して行くことに。
仏様(海隣寺の阿弥陀如来)と神様(麻賀多神社の和久産巣日神)の両方を拝めば何らかの御利益はあるだろう。


麻賀多神社という名の神社は、佐倉市内に11社、隣接する酒々井町2社・成田市2社・富里市2社・八千代市1社の
計18社を数えるだけとのこと。
他の地方には見られない珍しい名前の神社で、印旛沼の東側から南にかけての地域にのみ存在する神社ということである。
社殿は天保十四年(1843)に藩主堀田正睦公が再建したもの。


本殿横に3つの碑が建てられている。
左から義烈之碑(佐倉藩士民の戊辰の役より日清戦争出征者、慰霊顕彰碑)
中央は忠勇之碑(佐倉藩士民の日露戦争出征者、慰霊顕彰碑)
右は両士記念之碑(戊辰の役に際し、幕府方に参戦した佐倉藩士2名の記念碑)


先ほどの新町交差点から500mほど、成田街道に沿って旧佐倉城下町の風情が残る家並が続く。


初代から第二十代までの佐倉城主の幟り旗が下がっている。
第六代城主堀田正信(1651-1660)の幟り旗


佐倉城の城主は初代の土井利勝(1610-1633)から第二十代城主の堀田正倫(1859-1869)まで続く。
最後の城主となった第二十代堀田正倫の幟り旗


山車飾りに使われる彫刻が陳列されていた。
江戸後期は祭も盛んだった(今でも盛んらしい)のだろう。


こちらは薬局だ。
正面から見ると分からないが後ろは蔵になっている。
明治後期の造りで築100年以上経っている、とのことだった。


佐倉市登録有形文化財に指定されている三谷家住宅
右側の袖蔵は明治十七年(1884)に建てられたもの。
座敷屋は昭和十年(1935)頃に建てられ、出桁造りの主屋と並んで袖蔵が建つ、
当時の佐倉の伝統的な商家の構えを残している。(佐倉市教育委員会)


順天堂医院


本町交差点角、順天堂医院の隣に、佐倉順天堂記念館がある。


有料と書かれていたが、中庭までは無料とのことなので、ちょっとだけ中庭を見せてもらうことにした。
案内板によると、
順天堂は、長崎に遊学後江戸に蘭医学塾を開いていた蘭医佐藤泰然(さとうたいぜん)が佐倉に移り住み、
天保十四年(1842)に開いたオランダ医学の塾である。
(中略)
佐倉の順天堂は泰然の養子佐藤舜海(岡本道庵)が受け継ぎ、佐倉順天堂として医療活動を続けた。
現在残っている建物は、安政五年(1858)に建てられたもので、その後拡充された施設の一部である。


旧佐倉順天堂の門の礎石が庭に保存されていた。
安政五年(1858)に建てられ、140年間順天堂の門を支えた礎石だが、平成十三年に建て替えられ、
この時、礎石も同時に新しくなった。


佐倉順天堂記念館から800mほど進むと、酒々井町に入った。


国道51号線手前の上本佐倉交差点。
国道51号と並行して成田街道がある。
道路が何本かあってややこしい交差点だ。もう少しで間違うところだった。


上本佐倉交差点を成田方面へ左折し、少し進むと左手に大鷲神社があった。


神社と言っても、小さな鳥居とその奥に小さな祠があるだけだ。


大鷲神社から少しばかり進むと、今度は八坂神社があった。


この日の最高気温は25℃を越えるらしい。
蒸し暑い中を歩き続け、他に適当な休憩場所も見つからないため、ここで休憩して行くことにした。
10時40分を少し過ぎたところである。


お茶タイムの始まりだ。
12人全員が何らかのお菓子を持ってきている。それを交換するので結構な数になる。
お昼抜きでもOKの量だ。


”酒の井の碑”の標識に従って細い路地を入って行くと・・・


小さな門があり、”伝説酒の井”と書かれていた。
正面奥に”酒の井の碑”が見える。
ここは円福院の境内になっている。


ある孝行息子が見つけた井戸から酒がでてきたことが、酒々井の地名の起源といわれている。
碑の横にある井戸からは水が湧き出る仕掛けになっていた。


孝行息子が汲んで飲むと美味い酒だが、他の人が汲んで飲んでもただの水であった、そうである。
『美味い酒、飲んでみたかったねぇ』 同感である。


成田街道(国道51号)を成田方面へ進む。


こんもりとした丘のようなところに「築山」の看板が出ていた。
築山は通称「桜山」と呼ばれている。


丸太の階段を数十段上ると東屋があった。


築山(桜山)からの眺望
宗吾霊堂方面を望む。


築山には、明治天皇が巡行の折に2回訪れたことを記念した碑が建てられていた。


再び成田街道(国道51号)に戻って成田山を目指す。


国道51号と並行しているが、国道の脇に歩道があるので、歩き易い。


いったん国道51号から逸れて旧道を進む。
車の騒音・廃棄ガスから逃れられて一安堵。
このような景色は気持ちが安らぐ。


道端に成田街道道標がポツンと横たわっていた。
明治二十七年(1894)に成田山信集講の岩田長兵衛が建てた案内道標5基のうちの一つだそうである。
草や笹が生い茂ると隠れて見えなくなってしまうのではないか。


竹林に囲まれた旧道は、ひんやりとしている。
『涼しいなぁ ほっとするねぇ』


竹林を抜けた辺りに江戸時代に馬を使った運送業者たちによって祀られた馬頭観音堂があった。


国道51号線との合流地点に道標がある。


宗吾道を指差す道標
国道51号線を横断して直進すると、宗吾霊堂へ通じる。


国道51号線と並行し、かつて松並木があった道(伊篠松並木)を進む。
昭和末期までは旧街道沿い約800mに渡り松並木が続いていたそうだが、すべて枯れてしまった、とのこと。
今は数本の松の木が見られるのが、その名残だろうか。


成田山護摩木山供養碑
成田不動尊の護摩を焚くための材木を用立てるため、信者が寄附した土地を記念した石碑。


国道51号線との合流点にコンビニがあったので、体調を整えるためにもここで小休止し、2度目のお茶タイムだ。
既に12時を10分ほど過ぎていたが、お茶タイムの効果かお腹は空いていない。
この分なら成田山新勝寺到着まで何とか持つだろう。


国道51号線
大型トラックがひっきりなしに走る。


国道51号線を横断し、旧道を進む。
こちらは滅多に車は通らない。
のんびりと歩くのにちょうど良い。


毛糸の帽子と袖無しのTシャツを着せられたお地蔵さん。
Yの字形に”犬供養”と書かれた木の枝がお地蔵さんの足元に置かれていた。
動物の供養の際に、このような形の木が祀られる、そうだ。


国道51号線に合流した。ここからしばらくは51号線を歩くことになる。
JR成田線が直ぐ横を走る。


いよいよ成田市だ。
ゴールは近い。


12時40分を過ぎ、飲食店の看板が気になり始めたが、ひたすら成田山新勝寺を目指す。
国道51号線は交通量も多く排ガスも気になる。


一本松の碑
かつてはここに一本の松があり、旅人たちの憩いの場となっていたそうだが、
枯れてしまい、今では石碑となって残るのみである。


JR成田線の踏切
ちょうど電車が通過するところだった。


13時15分、JR成田駅を通過


成田市の市街地、上町付近。
平日のためか、通りはあまり混雑はしていない。
週末ともなれば大勢の参拝客が行き来するのだろう。


右へ曲がると新勝寺の参道だ。


参道の入り口付近に三橋鷹女(みつはしたかじょ)像があった。
説明板によると、
女流俳人の三橋鷹女は明治三十二年(1899)成田市田町に生まれた。
成田高等女学校を卒業し、大正五年(1916)に上京。
大正十一年(1922)に歯科医師の東謙三と婚姻し、夫と共に俳句にいそしんだ。
最初は、「鹿火屋」、次に「鶏頭陣」に属したが、後には結社に拠らず独自の句境を築いた。
ブロンズ像は平成十年(1998)、鷹女の生誕100年を記念して建てられたもの、と記されている。


参道
門前町の雰囲気が漂う。両側にはずらりと土産物店や飲食店が並ぶ。


せっかくだから鰻を食べたいが、最近の鰻は少し高そうだ。
『先に新勝寺への報告を済ませましょう』


この店(大野屋旅館)はなかなか歴史を感じさせる造りである。
蕎麦もやっている。


13時30分、総門に到着。
総門の前に立ってみるとその大きさに圧倒される。


総門の先の仁王門をくぐり、


最後の急な石段を上ると・・・


目の前に大本堂が現れた。
『いやぁ さすがにでっかいなぁ』


先ずは到着の報告だ。
『成田街道無事歩き終わりましたっ!』合掌


三重塔


一切経堂と鐘楼


一切経堂


大本堂をバックに全員揃って記念撮影だ。
『お疲れさんでしたっ!』
『後は昼食だねっ』『冷たいビールが飲みたいっ!』


階段を下り、昼食の店を目指す。


総門近くに鰻と蕎麦類の両方が注文できる店があった。
先ずは冷たい生ビールで『かんぱ~い』
『冷たくて美味いねっ!』
14時を少し過ぎて空き腹だったので、なおさら美味しく感じたと思われる。


皆さん、好みのものを注文。
自分はミニ鰻丼と蕎麦のセット(1,300円)を注文した。


『いただきま~す!』
『美味しいわねっ!』


黒が基調の門前町。あらためて見ると、落ち着いた雰囲気が感じられる。
参道沿いの土産物店で早速土産物を買い求める人も。


成田山にお参りして「米屋総本店」に寄らないで帰るわけにはいかない。
『お土産は何にしょうかな?』 『やっぱり羊羹が良いかな?』


お土産を手に成田駅に向かう足取りは軽い。


JR成田駅に到着。
『今日は大変お疲れさまでしたっ!』


この日の気温は25℃前後と高い中、全員無事に成田街道を歩き終わり、一安心である。
当初予定していたより、1時間ほど遅れて新勝寺に到着した。
途中のお茶タイムでお腹を満たしてはいたが、さすがに14時を過ぎるとお腹が空いてしまった。
そのお陰だろうか生ビールが久しぶりに美味しく感じられた。


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