ウマさんの気ままな行動日記(その2)

趣味の釣り・日帰り温泉・街道歩き・ウォーキング情報等を発信していきたいと思っています。コメント歓迎します。

成田街道を歩く 第1回 新宿から船橋宿へ

2012年03月01日 | ウマさんの「成田街道」を歩く
2012年3月1日(木)

ウマさんの「旧水戸街道を歩く」では、東京日本橋から水戸までの約120Kmを
昨年12月に歩き終わった。このことは、既に紹介済みである。
その時のメンバーから、次は”成田街道を歩いてみたい”、との声が上がり、
今回の企画「成田街道を歩く」となった次第。

記念の第1回目となるこの日は、新宿(にいじゅく)から船橋宿までの
約15Kmを歩くことにした。
最寄りの亀有駅には、合計9名が集まり、もう一人の到着を待っているところ。


9時23分、この日の参加者10名全員が揃ったところで”船橋宿”を目指して出発だ。


亀有駅前付近
朝方は普通の寒さだが、この日は3月下旬並みの気温になるとのこと。
日差しが少しばかり温かく感じる。


中川を越えると新宿(にいじゅく)である。


新宿に入って直ぐに西念寺がある。
覚林山宝樹院と号し、文安五年(1448)僧浄円が結んだ草庵を起源とし、
天文元年(1532)覚蓮社法誉が寺院として創建したと伝えられている。
江戸時代には門末7ヵ寺を擁する小本寺格の寺院であった。


日枝神社
鳥居は山王神社形式の特色ある形式のもの。江戸の昔は山王大権現と呼ばれていた。
祭神は日枝大神(大山昨神)で宝暦年間(1750)頃、新宿の守護神として鎮座、
享保14年に現在地へ移転したという。


成田街道はここ葛飾区新宿から成田山新勝寺までである。
第1日目の出発を記念して揃って一枚。
全員が成田山新勝寺にゴールすることを願うばかりだ。


日枝神社の直ぐ脇を国道6号(水戸街道)が走っている。


横断陸橋を渡り、


横断陸橋から国道6号を望む。


しばらく住宅地を進む。


新金貨物線の踏切だ。
新金貨物線は、常磐線金町と総武線新小岩間を結ぶ貨物用の線路である。


曹洞宗海鳥山崇福寺(かいとうざんそうふくじ
門前の説明によれば、
徳川家康が江戸幕府を開く3年前の慶長五年三月(1600)、香山泰厳和尚が日本橋浜町に
崇福庵を建立。
慶長十八年(1613)上野厩橋(こうづけうまやばし)藩(前橋城主)の
酒井雅楽頭忠世(さかいうたのかみただよ)の帰依により、堂舎を建立し、
国府台の総寧寺を本寺とし名称を崇福寺とした。(中略)
酒井家は、徳川氏最古参の譜代筆頭で、徳川幕府の大老四家の一つに数えられている。
江戸城大手門付近の酒井家上屋敷の中庭には平将門公の首塚があり、酒井家により
手厚く祀られ、崇福寺の住職も首塚に供養に出向いていた。
(以下略)
と紹介されている。


京成金町線の踏切
京成高砂から京成金町に向かう電車が通過する。次は柴又駅だ。


京成金町線を過ぎ、桜道中学校辺りに建てられている「旧佐倉街道」の道標に見入る。
佐倉街道は、かつて江戸から佐倉へ通じる道として栄えていた。
葛飾の新宿で水戸街道と分れ、上小岩村を抜け、江戸川を渡り、下総の村々を通り、
佐倉に達していた。東海道などの五街道に匹敵するほどの重要な道であった。
佐倉街道を通過した大名は佐倉藩堀田氏をはじめ、房総方面の十数藩に上った。
江戸中期以降、成田山や千葉寺への参詣する旅人があったため、
”成田千葉寺道”(なりたちばでらみち)と呼ばれた。



今度は北総線のガードをくぐる。


親水さくらかいどう」の道標が建てられていた。


数百mに渡って水路が整備され、きれいな水が流れている。
案内板には、次のように説明されている。
佐倉街道は、千住より小岩を経て、千葉、佐倉に至る参勤交代の道筋として、
江戸末期には成田詣りの道として利用されてきた。
水路は、明治に入り、永年水不足に苦しんでいた農民の願いを、石井善兵衛氏が
中心となって江戸川の水を取り入れたものである。
その後農業用水路から排水路として利用され、下水道の整備によりその使命を終えた。



道路脇を水が流れているというのは、落ち着いた気分にさせられるものである。


上小岩親水緑道の入口


入口を入ると直ぐ左側に””があり、”親水”の源流となる水が流れ落ちている。
約1Kmほど緑に囲まれた流れが続く、とのこと。


親水緑道の入口付近に小さなお堂があった。
中はよく見えなかったが、お地蔵さんが祀られているようだ。


親水緑道の入口からは、江戸川堤防の上を歩くことにした。


気温も次第に上がってきて、春のような温かさである。
堤防上を軟らかな風に吹かれて歩くのは本当に気持ちが良い。
とてもこれが堤防上の道とは思えないほど広いのも気分が良い。


15分ほど進むと、京成本線の鉄橋が見えて来た。
電車が轟音を響かせて走っていく。


国道14号線の市川橋を渡る。
橋の手前に北野神社と賽林寺があったのだが、堤防を歩いたので見過ごしてしまった。
また何かの機会があれば、訪れてみようと思う。


市川橋を渡ってすぐ左側に「市川関所跡」があった。
たび重なる江戸川護岸工事のため、正確な関所の建物、渡船場の位置は明らかではない、とのこと。
今は石碑が建つのみだ。


案内板には、
江戸時代以前は江戸川は太日川(ふといがわ)と呼ばれていた。
奈良・平安時代の関所跡周辺には井上駅家(いかみのうまや)がおかれ、
都と下総国を往来する公の使いが太日川の渡し船と馬の乗り換えをおこなった。
(中略)

やがて江戸幕府がおかれると、江戸を守るなどのため、関東の主な川に、船の渡場で
旅人を調べる「定船場」が設けられた。
古くから渡があり、市場で賑わっていた市川が選ばれ、これが後に関所になった。
(中略)

慶応から明治へと時代が変わった時、旧幕府軍と新政府軍の激しい戦いの舞台となった。
明治二年(1869)に関所廃止令が出されてその使命が終えてもなお、明治三十八年(1905)に
江戸川橋ができるまで、渡船の運行は続けられた。

(以下略)


市川市の国道14号線の市川広小路交差点。
14号線を進むためには、跨線橋を渡らなければならない。
歩行者にとっては甚だ不便な交差点である。


市川名物の旧三本松跡
昭和初期、車の通行が増えるにしたがって松は枯れ始め、昭和十年(1935)
ついに自動車の通行の妨げになるとして取り除かれてしまった。
また、街道の拡張に伴って昭和三十三年(1958)に残る2本も伐採されてしまった。
今は手前の太い木の元に碑が残るのみである。
実家が市川市のA子さんによると、市川市は松を大変大事にするそうで、
許可なしには松を切ることは許されないのだとか。


市川消防局西消防署を過ぎて直ぐに「青面金剛」(しょうめんごんごう)の碑があった。
正面に「青面金剛」、下部には「見ざる・聞かざる・言わざる」の3さるが彫られている。
「青面金剛」は「庚申塔」に刻まれる文字で、庚申(かのえさる)は60ある干支(えと)のひとつ。


街道を歩いていると、いろんな寺や神社が現れる。
新田胡録神社にったころくじんじゃ)と読むのかな?
茨城に住む我々にはあまり馴染のない社名だが、毎年7月14日に行われる祭礼は
大変な人出で賑わいを見せるそうだ。


こちらは諏訪神社、新田胡録神社から50mと離れていない。
全てに立寄ってる時間はないので、写真だけにした。


さらに国道14号線を進む。
ランチメニューなどの看板が目に付く。


大分お腹も空いてきたが、”市川市役所の食堂で昼食を”の希望もあることから、
もう少し進むことにした。


葛飾八幡宮
平安時代、寛平年間(889~898)の創建。
国指定の天然記念物である千年公孫樹や、市指定の文化財である丹塗りの随神門などがある。


市川市八幡の市役所前に藪不知森(やぶしらずのもり)がある。
鬱蒼とした竹林に覆われている。


古くから禁足地とされており、
「足を踏み入れると二度と出てこられなくなる」という神隠しの伝承とともに有名、だそうだ。
現在は不知森神社しらずもりじんじゃ)の一角のみ立ち入りが可能となっている。


目当ての市川市役所は目の前だ。


A,Bランチの他麺類などがあったが、Aランチは既に売り切れ。
まだ12時30分、Bランチ用のチケットを購入したが、これも残り2人分という状態。
後の人はカレーを注文するしかない。他の人には申し訳ない思いがした。
何年ぶりかで麦めしを食べたが、お腹が空いていたので美味かった。


市川市役所を後にして、船橋へ向かう。
真間川に架かる境橋を渡る。
橋の袂には、日本に初めて体操などを紹介した”わが国体操の父”と仰がれた、
坪井玄道つぼいげんどう)生誕の地、の案内板がある。


吉澤野球博物館
野球専門の博物館。
吉澤善吉が個人コレクションを元に私財を投じて昭和五十四年(1979)に開設した。
特に東京六大学野球を始めとする戦前のアマチュア野球史料の充実は特筆するものがある、とのこと。
あいにくこの日は休館日だった。


多聞寺
鎌倉時代末期の永仁六年(1298)日蓮の直弟子であった日傳上人が建立したと伝えられている。


東明寺とうみょうじ
浄土宗の仏教寺院
創建は室町時代の末、弘治三年(1557)とされる。


船橋を目指して力強く進む。


西船橋の武蔵野線を通過
この日のゴール船橋は近い。


市川市役所を出発して約1時間、少しばかり疲れが出て来た。
間の良いことに、山野浅間神社があったので、一休みしていくことに。
せっかくだからお参りして行こう、と思ったらこれがなかなか。


石段を上がると、長い参道が続き、拝殿は見えない。
お参りを言いだした手前、引き返す訳にはいかない。


『どこまで続くの?』
疲れた足にはちょっと長すぎる参道ではある。


参道入口から5分ほど歩いてようやく、本殿へ辿り着いた。
奈良平安時代の駿河の国の富士浅間神社の分社で立派な社殿である。


『ちょっと疲れたねぇ』
自慢のリュックで一休みのKさん。
とても喜寿を過ぎたとは思えない元気さだ。


山野浅間神社を後にし、国道14号線を進むと、足元に武内元宮入日神社が見えた。


写真を撮るために階段を下りていったのだが・・・
皆さんは道路の上から見降ろし、戻るのを待っている。


国道14号線のすぐ脇にあるが、急な階段下にあるため目立たないのだろう。
小さな鳥居と祠が祀られているだけである。


総武線の上を国道14号線が跨いている。


国道14号線の跨線橋を過ぎる辺りの左手にお墓がびっしりと立ち並んでいるのが見えた。
どうやら海神念仏堂だ。


海神念仏堂
本尊の木造阿弥陀如来立像は、平安時代末期前後(12世紀頃)の作で
船橋市の有形文化財に指定されている。


観音堂
元禄十四年(1701)に江戸神田鍋町の富商である、高麗屋佐治右衛門が建立寄進したもの。
堂内には、佐治右衛門が奉納した33体の観音像が安置されている。


大師堂


大師堂には弘法大師像が安置されていた。


間もなく船橋駅だ。


京成本線をくぐり・・・


15時5分、この日のゴール東武船橋駅に到着した。
万歩計は25,000歩を越えていた。


東武野田線で柏に向かった。
皆さん、やや疲れ気味の様子。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたっ!』


次の第2回目は船橋宿~大和田宿を歩くことになる。
皆さんとまた歩くのが楽しみである。

ウマさんの「成田街道を歩く」の目次”に戻る。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 富士山はどこ? 曽我丘陵ハ... | トップ | 雨の「はなのき通り・ふれあ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ウマさんの「成田街道」を歩く」カテゴリの最新記事