ウマさんの気ままな行動日記(その2)

趣味の釣り・日帰り温泉・街道歩き・ウォーキング情報等を発信していきたいと思っています。コメント歓迎します。

日本100名城巡り No.48 松坂城

2013年07月26日 | ウマさんの「日本100名城」巡り
2013年7月26日(金)

松坂城は、戦国の智将と謳われた蒲生氏郷が築いた。
天正十二年(1584)小牧・長久手合戦の後、豊臣秀吉により蒲生氏郷が松ヶ島城に入った。
しかし城地が狭く不便であったため、天正十六年(1588)に高さ30mの四五百森(よいおのもり)の独立丘陵の周囲に
内堀と、本丸・二の丸・三の丸を完成させた。

氏郷は近江国日野の出身で 織田信長の寵を受けた武将であった。
出身地の工人などの技術者集団を引き連れ、安土城とよく似た縄張りや建物構成をもつ城を築いた。
氏郷はこの新城を、吉祥の木である松と秀吉の居城大坂城から一字を拝領して「松坂城」と命名した。


登城前に松坂市役所を見ておこう。
市役所は表門(大手口)の前100mちょっとのところにある。


こちらは松坂市民病院


松坂市民病院前に無料の市営駐車場があった。
係の人が親切にグラウンド脇に車を誘導してくれた。


松坂城表門への途中に城内の配置図があった。
後から参考になるので、撮っておいた。


上空からの写真も掲示してあった。
これは、裏門(搦手口)から撮影したもので、手前に二の丸、その上が本丸、天守台が、
左には隠居丸、きたい丸が配置されているのが分かる。
非常に参考になる。


二の丸石垣に沿って進む。


表門跡(大手口)
本瓦葺2階建の本格的櫓門があったが明治初期に破却されたそうだ。


表門跡の正面に松坂城址碑がある。


表門の左側に進むと本丸下段の石垣がそびえる。
野面積み、算木積みの石垣が美しい。
この上は本丸下段の月見櫓跡と思われる。


二の丸跡から市内がよく見える。
こちらは市役所方面になるが、あまり高い建物がないので、よく見渡せる。
松坂城の本丸(上段・下段)と二の丸は松阪公園として整備されている。


朝食はまだだったので、のんびりと朝食のサンドイッチを食べていたが・・・
クマゼミがめちゃくちゃうるさかった。


それでも我慢してサンドイッチを食べ、城内を巡ることにした。
二の丸跡から隠居丸跡方向を見た景色


二の丸公園のすぐそばには、松坂城を警護していた旧紀州藩士が住んだ、「御城番屋敷」が見える。
2棟の長屋形式となっている。


二の丸跡に大きな藤棚があった。
説明には以下のように紹介されていた。
この紫藤は愛知県海部郡鍋田村字森津にあり、当時200余年経たのを、市内中町脇田藤助翁が
明治二十三年(1890)株分けし市に寄贈されたものである。


通算樹齢三百数十年を数え、藤棚面積346㎡(105坪)主幹周囲は5mに及ぶ。
松坂の名木として市民に親しまれている、とのこと。(昭和53年記)
それにしても見事と言う外ない。


二の丸には徳川陣屋跡があったが、建物などは何も残っていなかった。
後ろに見えるのは地図から推測すると音楽堂か?


本丸下段手前の虎口
松坂城の本丸は上段と下段があり、二段に分かれているのは珍しい。


本丸下段へ通じる中御門跡


本丸下段の広場


本丸下段の太鼓櫓跡


こちらは月見櫓跡
ここからも市内の町並みがよく見える。


こちらは遠見櫓跡
何かの碑が建てられていて、眺望は効かない。
太鼓櫓・月見櫓・遠見櫓はそれぞれを多聞で結んでいた。


本丸上段への虎口を進むと・・・


本丸上段に出た。
本丸上段には、桃山様式の三層天守と、敵見・金の間諸門などの建物があった。


本丸上段の天守台近くに井戸があった。
網が被せられていたので、水があるのかは確認できなかった。


天守台
城跡には現存する建物はないが、石垣は残っており、本丸には野面積で築かれた天守台が存在する。
天守台の石垣は不等辺四角形をなし、本丸上段から突き出す形で築かれている。


天守閣跡
城の最も高い場所にある。
四五百森(よいおのもり)の丘(標高38m)には、三層の天守閣が聳え立っていたそうだ。
それをとり巻いてそれぞれの郭に敵見・金の間・月見等の櫓が配されていた。
三層の望楼型天守は、正保元年(1644)の台風で倒壊した、そうである。


天守台のすぐ横に敵見櫓跡がある。


天守台から敵見櫓北続多聞櫓方面を見たところ。


敵見櫓北続多聞櫓から天守台を望む。


藤見櫓跡から市営グラウンドが見える。


本丸天守台の反対側に金の間櫓跡がある。


金の間櫓跡


本丸の西にある「きたい丸」は、古田重恒の幼名「希代丸」に因んで付けられたと云われている。
「きたい丸」は四方を全て高石垣で囲まれている。
左に見えるのは、本居宣長博物館である。


「きたい丸」の石垣


松坂城の主要な廓の周囲には見事な石垣が巡っている。
野面積みの石垣に、隅部は美観に重点をおき、算木積み(さんぎつみ)が取り入れられている。


100名城スタンプは本居宣長博物館にあるため、再度二の丸から隠居丸へ。


隠居丸跡
今は庭園になっている。


本居宣長旧宅「鈴屋」
この家は本居宣長が12歳から亡くなる72歳まで住んだところで、彼の祖父が隠居所として
元禄四年(1692)に建てたもの。
宣長は、この家で医者としての仕事をし、古典の講義をしたり、歌会を開いたりした。
二階の書斎の床の間の柱に掛鈴を下げていたことから、「鈴屋」と呼ばれている。
もと魚町にあったものを保存と公開のため、明治四十二年(1909)に現在地に移築した。


隠居丸を過ぎると直ぐに本居宣長博物館があった。
100名城スタンプが置かれていた。
ここでスタンプを押して・・・これで81か城目になった。


本居宣長博物館
三の丸は本居宣長を祀る本居神社や、公共施設の敷地となっている。


本居宣長博物館の出入り口から見た隠居丸角の石垣
反りの曲線が素晴らしい。


本丸、隠居丸、二の丸など主要部はすべて総石垣造りである


松坂神社の鳥居
松坂神社は本居宣長ノ宮は同じ場所にある。
今回は神社には立ち寄らずに「御城番屋敷」へ向かった。


裏門(搦手口門)
二の丸と隠居丸の中間に位置する門


裏門の虎口


「御城番屋敷」を見ていこう。
裏門(搦手口門)の直ぐ前、三の丸跡の武家屋敷が、「御城番屋敷」である。


「御城番屋敷」は両側に並んで建てられている2棟の長屋である。
石畳の道の両側は、槇の垣根に囲まれており、中は見え難くなっている。


「御城番屋敷」の土蔵
この土蔵は、江戸時代末期に松坂城内の隠居丸に建てられていた三棟の土蔵のうちの米蔵で、
明治初期にこの地に移築されたといわれている。
旧松坂城関係の建物としては、唯一現存する建物となる、そうだ。


ここの住人と思われる人が、土蔵横にある「南龍神社」を掃き清めていた。
紀州藩祖徳川頼宣(南龍公)を祭神として明治17年に松坂城本丸に建てられたが、
昭和28年に廃社となり、現在地に移された。
「御城番屋敷」には現在でも市民の方が暮らしている、とのこと。


実際には10軒+9軒の合計19軒で暮らしているが、そのうち5軒は御城番紀州藩士の末孫だそうで、
14軒は市の借家として末孫以外の人が住んでいるとのこと。
西棟の一戸だけを復元修理し、10時から内部を公開していたので、見学させてもらった。


御城番屋敷の紀州藩士は、江戸時代末期に「苗秀社」を創設し、明治維新や廃藩置県を乗り切ったそうである。
「苗秀社」は今でも現存し、社員は直系の子孫からなり、現在11名で構成されている、とのこと。


6畳2間と8畳2間、それに厠と台所の間取りになっている。いわゆる4DKという広さだ。
家の前と裏に小さいながらも庭も付いているので、結構広い。
土間から手前の6畳、奥の8畳を見たところ。


奥の8畳


奥のもう一つの8畳は床の間になっている。


突き当り右側に松坂神社の鳥居があった。
こちらからも松坂神社へ行けるようになっている。


公衆電話
最近はなかなかお目にかかれない。
このような電話機は風情があってなかなかである。
御城番屋敷に似合っている、と思う。


御城番屋敷突き当りの松坂神社鳥居から松坂城を見たところ。
なかなか良い風景だ。


二の丸下の石垣を見上げながら表門へ。


二の丸下の高石垣


二の丸下表門付近の高石垣


最初に登城した表門と高石垣


松坂城を一回りして感じるのは、城全体が石垣に囲まれている、という印象を受けた。
二の丸、本丸は言うに及ばず、隠居丸、きたい丸と高石垣に囲まれ、見応えがあった。
今回の城巡りを終えて、81ヶ城を巡ったことになる。
残り19城、もう一息だが家から遠いところばかりである。
あせらず気長く続けて、100城完全登城を目指したい。

この後、今回の旅の締めくくりとして、千畳敷カールに行ってみることにした。
駒ヶ根市の道の駅「花の里いいじま」を目指した。


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