2013年7月22日(月)
伊賀上野城は、上野盆地のほぼ中央、上野台地の北部にある標高184mほどの丘に建てられた平山城である。
北には服部川と柘植川、南には久米川、西側には木津川の本流が流れ、城と城下町を取り巻く要害の地にある。
天正十三年(1585) に筒井定次によって改修を受け、慶長十六年(1611)に徳川家康の命で藤堂高虎が拡張したが、
大坂の役によって、当時高虎が従属する徳川家康に対立していた豊臣氏が滅んだため築城は中止され、
本丸・二ノ丸などの主要部分は城代屋敷を除いて未完成のまま江戸時代を過ごした。
筒井定次時代は、伊賀上野城は大坂城を守る出城としての機能を持った城であったのに対して、
藤堂高虎時代は大坂城を攻めるための城というまったく正反対の立場をとった城とされている。
伊賀上野城の上野公園駐車場に車を停めると、管理人が近付いてきて親切にも道順を教えてくれた。
大手門に行くにはこちらの方が近道だからと、「芭蕉翁記念館」とは反対側の道を教えてくれた。
管理人に教えて貰った上野西小学校裏の道を進む。
体育館だろうか? 俳聖殿を模したような形をしている。
上野西小学校側から駐車場側を見たところ。
二の丸の石垣を見ながら進む。
二の丸の石垣
突き当りを右に曲がると、大手門跡があった。
上野城城跡碑
上野城城跡碑の右手前に二の丸跡がある。
本丸跡の石垣
二の丸跡には、木が生えている。
草がきれいに刈り取られているので歩いていて気持ちが良い。
城を含めた近隣一帯は上野公園として整備されている。
さきほど大手門跡へ向かっていた時に見えた石垣を上から見たところ。
大手門跡まで戻って本丸へ進む。
坂道を上り積めると西側の高石垣の上に出た。
川端康成が横光利一を詠んだ碑が建てられていた。
横光利一は、小説家・俳人で、菊池寛に師事し、川端康成と共に新感覚派として活躍した人物である。
高石垣からの眺望。
上野城の見所と言えば、全国的にも屈指の高さを誇る西側一帯の高石垣だ。
この石垣は天下普請の城に見劣りしないほどの迫力がある。
高さ30mはあるという日本一高い石垣だそうである。
石垣の上から内濠を見たが、『高いっ!!』
石垣に沿って歩いていると、木々の隙間から天守閣が見えた。
忍者の恰好をした子供が可愛らしい。
なかなか格好良い。伊賀上野ならではの姿である。
また少し先へ進むと連結式の天守閣が見える。
伊賀上野城は天正十三年(1585)に筒井定次が大和郡山から伊賀上野に転封され三層の天守を築いた。
慶長十三年(1608)、筒井家がお家騒動で改易となると伊予今治から藤堂高虎が伊勢・伊賀20万石で入封してきた。
高虎は伊勢の津城を居城としていたが、徳川家康の命を受け大坂の豊臣秀頼の包囲の一角としての防御のため
本丸を高石垣で囲むなど旧筒井城の大改修に着手した。
しかし、竣工直前の慶長十七年(1612)9月2日の暴風雨で倒壊し、大坂夏の陣で秀吉方が滅亡したため、
城普請は中止され、城代家老が執政することとなった。
現在の天守は上野市生まれの政治家だった川崎克氏が私財を投じ昭和10年に再建したものだ。
「伊賀文化産業城」と称したが、天守の優美な姿が碧緑の上に羽を休める鳳凰に似ているとして、
白鳳城(はくほうじょう)の雅名がある。
スタンプを押していよいよ登城する。
登閣料(入館料)500円を払って天守へ。
楠門をくぐって、天守の入り口に向かうと、鯱鉾の模型が置かれていた。
小天守
籐堂高虎公像が迎えてくれる。
籐堂高虎公の真後ろに豊臣秀吉から拝領された、唐冠形兜(とうかんなりかぶと)
(三重県指定文化財)が飾られている。
翼を広げたような形が特徴である。
籐堂高虎は、築城の第一人者として名高く、上野城・津城のほか、江戸城・大坂城・篠山城など
20城余りの築城や修築を手掛けている。
地元代議士川崎克氏は天守閣復興を計画、鉄筋コンクリート様式でと進言する声もあったが、
上野城は桃山形式の木造建築とし、昭和七年(1932)10月14日に地鎮祭を執行して、復興工事に着手した、
と紹介されている。
城内には胸像も展示されている。
1階には陣笠や兜、
甲冑などが陳列されている。
また、甲冑などの後ろには能の写真や習字などが展示されている。
順路に従って2階に上がって見る。
2階は、全国の名城の写真や、川崎克氏の遺品(絵画・書軸・伊賀焼)などが陳列されている。
急な階段を天守閣へ上る。
天守閣
川崎克氏の鷹の絵
天守閣の格子天井には、鷹の絵を取り巻くように横山大観をはじめとする有名書家や画家の色紙が飾られている。
川崎克氏へ寄贈したもので、全部で46枚ある。
天守閣からの眺望(1)
南方面
天守閣からの眺望(2)
西方面
天守閣からの眺望(3)
北方面
天守閣からの眺望(4)
北東方面に俳聖殿が見える。
天守閣を出て俳聖殿へ向かう途中に筒井古城がある。
天守閣東の一段高い小丘に、筒井定次が天守・二の丸・三の丸を配した城郭を築いた。
筒井時代には、三重の天守があった、そうである。
筒井城跡の石垣
ここを下ったところが、最初に上った大手門跡に繋がっている。
俳聖殿へ向かう。
かつてここには柴小屋や米蔵、塩噌蔵(えんそぐら)などがあったとされている。
城代役所廓跡
筒井時代は本丸だったが、藤堂時代は、二の丸となった。
かっては二の丸御殿(城代屋敷)があった。
一国一城令で伊賀上野城は伊賀国の城として存続が認められると、弟の藤堂高清を城代とし、
藤堂高清の死後は藤堂元則が城代となり、文政三年(1825)藤堂高猷(とうどう たかゆき)が最後の城主となるまで世襲した。
筒井城跡を抜けて、俳聖殿・伊賀流忍者博物館へ向かう。
数分ほどで「伊賀流忍者博物館」に到着した。
「伊賀流忍者博物館」
塀の外からは伺い知ることはできないが、大勢の人が見学していた。
手裏剣投げも体験できる。
俳聖殿
松尾芭蕉生誕300年を記念して昭和十七年(1942)に建てられたもので、国指定の重要文化財となっている。
外観は芭蕉の旅姿を表している、そうである。
上層の屋根は芭蕉の笠、その下部が頭を、下層の屋根は蓑と衣を着た姿で、
堂は脚部、廻廊の柱は杖と脚を表現している、とのこと。なるほど、そう云われれば・・・
堂内には、松尾芭蕉の等身大伊賀焼の座像が安置されている。
俳聖殿の門を出て・・・
高石垣が下から見るため濠に沿って進む。
濠に沿って樹木が生い茂っているので、全体を見ることは出来ないが、
樹木の間から高石垣を垣間見ることができる。
高石垣から見た天守閣
この場所が高石垣を見ることができるベストポイントだった。
東大手門
平成九年(1997)大阪市から寄贈されたもの。
この後、西小学校裏を通り、駐車場へ戻って上野城は完了とした。
お腹が空いたので、駐車場で教えてもらった食事処の蕎麦屋へ行ってみることにした。
紹介された蕎麦屋は、伊賀上野城最寄りの名阪国道中瀬ICから一つ先の伊賀一之宮ICまで戻る必要がある。
伊賀一之宮IC直ぐ近くに松尾屋があった。
腰があってなかなか美味しい蕎麦だった。
次の目的地、和歌山城のある和歌山へ車を走らせた。
この日の最高気温は猛暑日並みの暑さで、大汗をかいたこともあり、何としてもひと風呂浴びたい。
国道24号線岩出市を走っている途中で見つけた「幸の湯」を利用することにした。
ウマさんの「日本100名城巡り」の目次(日付順)に戻る。
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伊賀上野城は、上野盆地のほぼ中央、上野台地の北部にある標高184mほどの丘に建てられた平山城である。
北には服部川と柘植川、南には久米川、西側には木津川の本流が流れ、城と城下町を取り巻く要害の地にある。
天正十三年(1585) に筒井定次によって改修を受け、慶長十六年(1611)に徳川家康の命で藤堂高虎が拡張したが、
大坂の役によって、当時高虎が従属する徳川家康に対立していた豊臣氏が滅んだため築城は中止され、
本丸・二ノ丸などの主要部分は城代屋敷を除いて未完成のまま江戸時代を過ごした。
筒井定次時代は、伊賀上野城は大坂城を守る出城としての機能を持った城であったのに対して、
藤堂高虎時代は大坂城を攻めるための城というまったく正反対の立場をとった城とされている。
伊賀上野城の上野公園駐車場に車を停めると、管理人が近付いてきて親切にも道順を教えてくれた。
大手門に行くにはこちらの方が近道だからと、「芭蕉翁記念館」とは反対側の道を教えてくれた。
管理人に教えて貰った上野西小学校裏の道を進む。
体育館だろうか? 俳聖殿を模したような形をしている。
上野西小学校側から駐車場側を見たところ。
二の丸の石垣を見ながら進む。
二の丸の石垣
突き当りを右に曲がると、大手門跡があった。
上野城城跡碑
上野城城跡碑の右手前に二の丸跡がある。
本丸跡の石垣
二の丸跡には、木が生えている。
草がきれいに刈り取られているので歩いていて気持ちが良い。
城を含めた近隣一帯は上野公園として整備されている。
さきほど大手門跡へ向かっていた時に見えた石垣を上から見たところ。
大手門跡まで戻って本丸へ進む。
坂道を上り積めると西側の高石垣の上に出た。
川端康成が横光利一を詠んだ碑が建てられていた。
横光利一は、小説家・俳人で、菊池寛に師事し、川端康成と共に新感覚派として活躍した人物である。
高石垣からの眺望。
上野城の見所と言えば、全国的にも屈指の高さを誇る西側一帯の高石垣だ。
この石垣は天下普請の城に見劣りしないほどの迫力がある。
高さ30mはあるという日本一高い石垣だそうである。
石垣の上から内濠を見たが、『高いっ!!』
石垣に沿って歩いていると、木々の隙間から天守閣が見えた。
忍者の恰好をした子供が可愛らしい。
なかなか格好良い。伊賀上野ならではの姿である。
また少し先へ進むと連結式の天守閣が見える。
伊賀上野城は天正十三年(1585)に筒井定次が大和郡山から伊賀上野に転封され三層の天守を築いた。
慶長十三年(1608)、筒井家がお家騒動で改易となると伊予今治から藤堂高虎が伊勢・伊賀20万石で入封してきた。
高虎は伊勢の津城を居城としていたが、徳川家康の命を受け大坂の豊臣秀頼の包囲の一角としての防御のため
本丸を高石垣で囲むなど旧筒井城の大改修に着手した。
しかし、竣工直前の慶長十七年(1612)9月2日の暴風雨で倒壊し、大坂夏の陣で秀吉方が滅亡したため、
城普請は中止され、城代家老が執政することとなった。
現在の天守は上野市生まれの政治家だった川崎克氏が私財を投じ昭和10年に再建したものだ。
「伊賀文化産業城」と称したが、天守の優美な姿が碧緑の上に羽を休める鳳凰に似ているとして、
白鳳城(はくほうじょう)の雅名がある。
スタンプを押していよいよ登城する。
登閣料(入館料)500円を払って天守へ。
楠門をくぐって、天守の入り口に向かうと、鯱鉾の模型が置かれていた。
小天守
籐堂高虎公像が迎えてくれる。
籐堂高虎公の真後ろに豊臣秀吉から拝領された、唐冠形兜(とうかんなりかぶと)
(三重県指定文化財)が飾られている。
翼を広げたような形が特徴である。
籐堂高虎は、築城の第一人者として名高く、上野城・津城のほか、江戸城・大坂城・篠山城など
20城余りの築城や修築を手掛けている。
地元代議士川崎克氏は天守閣復興を計画、鉄筋コンクリート様式でと進言する声もあったが、
上野城は桃山形式の木造建築とし、昭和七年(1932)10月14日に地鎮祭を執行して、復興工事に着手した、
と紹介されている。
城内には胸像も展示されている。
1階には陣笠や兜、
甲冑などが陳列されている。
また、甲冑などの後ろには能の写真や習字などが展示されている。
順路に従って2階に上がって見る。
2階は、全国の名城の写真や、川崎克氏の遺品(絵画・書軸・伊賀焼)などが陳列されている。
急な階段を天守閣へ上る。
天守閣
川崎克氏の鷹の絵
天守閣の格子天井には、鷹の絵を取り巻くように横山大観をはじめとする有名書家や画家の色紙が飾られている。
川崎克氏へ寄贈したもので、全部で46枚ある。
天守閣からの眺望(1)
南方面
天守閣からの眺望(2)
西方面
天守閣からの眺望(3)
北方面
天守閣からの眺望(4)
北東方面に俳聖殿が見える。
天守閣を出て俳聖殿へ向かう途中に筒井古城がある。
天守閣東の一段高い小丘に、筒井定次が天守・二の丸・三の丸を配した城郭を築いた。
筒井時代には、三重の天守があった、そうである。
筒井城跡の石垣
ここを下ったところが、最初に上った大手門跡に繋がっている。
俳聖殿へ向かう。
かつてここには柴小屋や米蔵、塩噌蔵(えんそぐら)などがあったとされている。
城代役所廓跡
筒井時代は本丸だったが、藤堂時代は、二の丸となった。
かっては二の丸御殿(城代屋敷)があった。
一国一城令で伊賀上野城は伊賀国の城として存続が認められると、弟の藤堂高清を城代とし、
藤堂高清の死後は藤堂元則が城代となり、文政三年(1825)藤堂高猷(とうどう たかゆき)が最後の城主となるまで世襲した。
筒井城跡を抜けて、俳聖殿・伊賀流忍者博物館へ向かう。
数分ほどで「伊賀流忍者博物館」に到着した。
「伊賀流忍者博物館」
塀の外からは伺い知ることはできないが、大勢の人が見学していた。
手裏剣投げも体験できる。
俳聖殿
松尾芭蕉生誕300年を記念して昭和十七年(1942)に建てられたもので、国指定の重要文化財となっている。
外観は芭蕉の旅姿を表している、そうである。
上層の屋根は芭蕉の笠、その下部が頭を、下層の屋根は蓑と衣を着た姿で、
堂は脚部、廻廊の柱は杖と脚を表現している、とのこと。なるほど、そう云われれば・・・
堂内には、松尾芭蕉の等身大伊賀焼の座像が安置されている。
俳聖殿の門を出て・・・
高石垣が下から見るため濠に沿って進む。
濠に沿って樹木が生い茂っているので、全体を見ることは出来ないが、
樹木の間から高石垣を垣間見ることができる。
高石垣から見た天守閣
この場所が高石垣を見ることができるベストポイントだった。
東大手門
平成九年(1997)大阪市から寄贈されたもの。
この後、西小学校裏を通り、駐車場へ戻って上野城は完了とした。
お腹が空いたので、駐車場で教えてもらった食事処の蕎麦屋へ行ってみることにした。
紹介された蕎麦屋は、伊賀上野城最寄りの名阪国道中瀬ICから一つ先の伊賀一之宮ICまで戻る必要がある。
伊賀一之宮IC直ぐ近くに松尾屋があった。
腰があってなかなか美味しい蕎麦だった。
次の目的地、和歌山城のある和歌山へ車を走らせた。
この日の最高気温は猛暑日並みの暑さで、大汗をかいたこともあり、何としてもひと風呂浴びたい。
国道24号線岩出市を走っている途中で見つけた「幸の湯」を利用することにした。
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