あの「魂の法則」が、
Part2「愛の法則」として、
新たに公開されている・・・!
遅ればせながら、転載を開始する・・・。その28
言うまでもなく、作者はヴィンセント・ギリェム(Vicent Guillem)氏、スペイン人で生化学博士である。
翻訳は、初版本「魂の法則」の訳者でもある小坂真里さん。
訳者のホームページ「魂の法則」に、既に公開されているものを、
敢えて転載する理由は、
一人でも多くの方に触れて頂きたいとの願いからである。
それは作者の願いでもあり、訳者の願いでもある。
そして、
共感する拙ブログの願いでもあるからだ。
既に、初版本「魂の法則」は日本でも公刊されており、
![]() |
魂の法則 |
ヴィセント・ギリェム | |
ナチュラルスピリット |
是非とも、手に取ってお読み頂きたい
尚、カテゴリー魂の法則には、23回に亘って連載させて頂いた経緯がある。
でも、
一冊の刊行本は、はるかに読みやすく、
座右の一冊となるだろう・・・。
<ヨッキーくんより>
これで、十戒は終了する。
少し、急ぎ転載してきたのであるが、
やっと、追いついた。
ここらでテンポを少し落としながら転載を続ける・・・。
急ぎすぎると、
読者の一部の方には、
読み切れないというご意見も頂いた・・・。
まあ、とにかく埋もれた真理が満載である。
次から、イエスについて語られる・・・。
【転載開始】
28 愛の法則から見た十戒 10
*今一度に三つの戒律を分析してみたので、残りは「不純な考えや願望を抱いてはならない」のみになりました。これについてはどうですか?
そんな戒律は存在していない。申命記にすら記載されておらず、後世の発明品である。プロテスタントのキリスト教会にも見られない。エゴなく行動するのも難しい人間に、エゴ的な考えも持たないように要求すること自体が望み過ぎというものだろう。
しかも「不純」とされるのは、おそらく、教会の法規で許容外である―つまり婚姻関係以外の―性的な願望を指すのだろうが、この定義もかなり曖昧である。この戒律は、感情と思考や性における自由を抑圧しようとした人間が創り上げたものなのだ。
*三つの戒律を一つにまとめたり、一つを除いてしまったので、十戒が七つになってしまいました。
一体誰が十個でなければならないと言ったのだね? だが構わなければ、とても重要で配慮すべきに思える助言が私にはあと三つほどある。
「自由意志を尊重せよ」、「霊的裁きの法則を尊重せよ」、「個人的または集団的な争いごとを平和に解決せよ」である。もめごとを平和に解決するには、個人レベルでも集団レベルでも公正であり、他者の自由意志を尊重しなければならないので、この三つの助言はお互いに深く関連している。
「自由意志の法則」と「霊的裁きの法則」がどういうものかを説明した時に話してはいるが、もう一度見てみよう。
「自由意志を尊重せよ」は、他の人たちの自由を尊ぶことである。つまり、その人たちの意志、意見、信仰、感情や人生における決断を尊重するということだ。 感情における自由も、自由意志の一部に過ぎない。誰も誰にも属さないので、誰にも他者の意志を奪う権利はないし、他者に代わって決断することもできない。
「霊的裁きの法則を尊重せよ」は、他の人たちに、自分にしてほしいことをしてあげることであり、自分にしてほしくないことはしないことである。なぜなら、実際のところ、他者にすることはすべて自分自身にすることになるからだ。そしてこのことは、個人レベルにおいても集団レベルにおいても、守られねばならない。
人類全体が和合して共存するためには、正義と自由意志を尊重してそれを実践して見せねばならず、社会機能や統治形態、さらに法律、経済、教育、文化などに 反映させないといけない。理論上では、自由と正義の原則が法令化されている国々においても、実際にはそれはエゴによって反故にされ、ただの紙切れに成り果 ててしまっている。
歴然とした奴隷制度はどの国においても不法とされているが、事実上は全人類が、搾取と虐待とを黙認し助長する経済・政治システムの下に統治されていて、奴 隷制なのかと見違えるほどだ。多くの国が外見的には民主主義であるが、実はその内に、国民に奉仕するふりをしながら逆に利用して、利己的な目的を果たそう とする政府が潜んでいる。平和を希求するふりをしながら戦争を推し進め、他の選択肢を探そうともしないくせに、それが唯一の紛争解決の手段であると思わせ る。他の方法を模索しないのは、エゴ、野心、貪欲に目が眩んで、代償を顧みずに突き進もうとするからだ。
だが、その気になって他の人たちを尊重して理解しようと努め、自分の利己的な行為を放棄する心構えを持てば、常に代替策はあるものだ。だから、「個人的ま たは集団的な争いごとを平和に解決せよ」という助言を頭に置いておけば、君たち自身や他の人たちのために、多くの苦しみを回避してあげられる。絶対に、暴 力、脅迫、恐喝に訴えてはいけない。また、自分に理があると思っている場合でも、自分の意志を他者に押しつけてはならない。
もちろん防衛する権利がある。身を守る権利があるだけではなく、そうせねばならない。他の人たちの自由を尊重するのと同じように、自分自身の自由も守らねばならないからだ。
争いを避けるというのは、一番強い者の意志に屈することではなく、暴力を避けつつ解決する、という意味だ。もっとも、相手のレベルまで身を落とす必要もない。
夫から虐待を受ける女性がいるとするなら、どんなことがあっても絶対に我慢するべきではないが、これは、相手と同じレベルになって暴力を仕返すという意味ではない。加害者から離れてDVを告発し、正義の裁きに委ねるのが理にかなっているだろう。
暴力は被害者の態度からではなく、自我を押し通すことのできない加害者によって生み出されているのであるから、ここで平和に紛争を解決するという助言を適用すべきなのは加害者であり、被害者ではない。平和主義であるのと従順になることを勘違いしないでほしい。両者は違うものだ。ここでは平和主義者になることを勧めてはいるが、従順になるように言ってはいないのだ。
両者の違いがわかるためには、兵役が義務付けられている国でそれを拒む平和主義者がいい例となる。こういう人 は、ふつう不従順だとされないかね? つまり平和主義者とは、暴力に対して不従順な人であり、確固たる信念を持って首尾一貫した行動をとる人なのだ。その ような人は、自分の良心が正しくないと思うことを強制されて行うことはないので、自己の自由意志が侵害されないように戦っていることになる。
防衛権はあるが、それは常に平和的な解決策が尽きてからだ。
ガンジーの例を見てみれば、平和主義者と従順な者との違いが理解できるだろう。彼はまた、暴力に訴えなくても、崇高で公正な理念に対する信念と堅固な意志さえあれば、大きなことが成し遂げられることを証明してくれている。
大概の戦争や武力抗争は一朝一夕に起こるものではないし、それを引き起こしたいと思う人たちも少数派である。武力衝突の背後には一般的に、少数の者たちの 利己的な関心-つまりある物を独占したいという野望―があり、人びとを騙して汚い仕事をさせるのである。好戦的な野心家どもを指導者の地位から追放すれ ば、すべての戦争や暴力的な紛争が回避できることだろう。
そしてこれは、全民族、全人種に、野心と貪欲や強欲に満ち溢れた非常に原始的なエゴを持った魂が転生していたからであり、誰が一番富と権力を掌握できるか と互いに争い合っていたからである。これまで人類を互いに争い合うように駆り立ててきたもの、そして現在においても駆り立てているものは、野心、貪欲、強 欲、そして狂信である。だが、どれほど強大な帝国であったとしても、どれも、時の流れと共に崩壊してしまった。愛の基盤がないものは短命なのだ。
以上のことから学びとるべきことは、野心と貪欲や強欲の姿を借りたエゴは多大な苦しみを生み出し、誰もその苦しみを味わいたくはないので、各自が心の中か らエゴを排除すべきであるということだ。この教訓を身につけたあかつきには、国家、民族、人種、宗教の間で、再び争いが起こることはないであろう。転生す る魂には、いかなる動機も兄弟を傷つけることを正当化できはしないし、そうすれば自分自身を傷つけることになると、はっきりわかっているからだ。
そんな戒律は存在していない。申命記にすら記載されておらず、後世の発明品である。プロテスタントのキリスト教会にも見られない。エゴなく行動するのも難しい人間に、エゴ的な考えも持たないように要求すること自体が望み過ぎというものだろう。
しかも「不純」とされるのは、おそらく、教会の法規で許容外である―つまり婚姻関係以外の―性的な願望を指すのだろうが、この定義もかなり曖昧である。この戒律は、感情と思考や性における自由を抑圧しようとした人間が創り上げたものなのだ。
*三つの戒律を一つにまとめたり、一つを除いてしまったので、十戒が七つになってしまいました。
一体誰が十個でなければならないと言ったのだね? だが構わなければ、とても重要で配慮すべきに思える助言が私にはあと三つほどある。
*どのようなものですか?
「自由意志を尊重せよ」、「霊的裁きの法則を尊重せよ」、「個人的または集団的な争いごとを平和に解決せよ」である。もめごとを平和に解決するには、個人レベルでも集団レベルでも公正であり、他者の自由意志を尊重しなければならないので、この三つの助言はお互いに深く関連している。
*それぞれの意味がはっきりするように、もう少し深く取り上げてくださいますか?
「自由意志の法則」と「霊的裁きの法則」がどういうものかを説明した時に話してはいるが、もう一度見てみよう。
「自由意志を尊重せよ」は、他の人たちの自由を尊ぶことである。つまり、その人たちの意志、意見、信仰、感情や人生における決断を尊重するということだ。 感情における自由も、自由意志の一部に過ぎない。誰も誰にも属さないので、誰にも他者の意志を奪う権利はないし、他者に代わって決断することもできない。
「霊的裁きの法則を尊重せよ」は、他の人たちに、自分にしてほしいことをしてあげることであり、自分にしてほしくないことはしないことである。なぜなら、実際のところ、他者にすることはすべて自分自身にすることになるからだ。そしてこのことは、個人レベルにおいても集団レベルにおいても、守られねばならない。
*個人レベルのことはわかりますが、集団レベルとはどういうことですか?
人類全体が和合して共存するためには、正義と自由意志を尊重してそれを実践して見せねばならず、社会機能や統治形態、さらに法律、経済、教育、文化などに 反映させないといけない。理論上では、自由と正義の原則が法令化されている国々においても、実際にはそれはエゴによって反故にされ、ただの紙切れに成り果 ててしまっている。
*例を挙げてくださいますか?
だが、その気になって他の人たちを尊重して理解しようと努め、自分の利己的な行為を放棄する心構えを持てば、常に代替策はあるものだ。だから、「個人的ま たは集団的な争いごとを平和に解決せよ」という助言を頭に置いておけば、君たち自身や他の人たちのために、多くの苦しみを回避してあげられる。絶対に、暴 力、脅迫、恐喝に訴えてはいけない。また、自分に理があると思っている場合でも、自分の意志を他者に押しつけてはならない。
*ちょっと疑問が出てきてしまいました。万が一、襲われたり、虐待されたり、脅迫されるなど、一言で言うと、自分の自由意志が他者に脅かされるような事態になった場合には、争いを避けるためにその暴力を許容すべきでしょうか、それとも防衛する権利があるのでしょうか?
もちろん防衛する権利がある。身を守る権利があるだけではなく、そうせねばならない。他の人たちの自由を尊重するのと同じように、自分自身の自由も守らねばならないからだ。
争いを避けるというのは、一番強い者の意志に屈することではなく、暴力を避けつつ解決する、という意味だ。もっとも、相手のレベルまで身を落とす必要もない。
*この点が明らかになるような例がありますか?
*でもそうしたら、加害者はきっと怒り狂って、暴力をエスカレートさせて、争いもさらに激しくなるかもしれません。そうなると、平和に争いごとを解決するという助言に反してしまいますが、これについてはどうでしょう。
暴力は被害者の態度からではなく、自我を押し通すことのできない加害者によって生み出されているのであるから、ここで平和に紛争を解決するという助言を適用すべきなのは加害者であり、被害者ではない。平和主義であるのと従順になることを勘違いしないでほしい。両者は違うものだ。ここでは平和主義者になることを勧めてはいるが、従順になるように言ってはいないのだ。
両者の違いがわかるためには、兵役が義務付けられている国でそれを拒む平和主義者がいい例となる。こういう人 は、ふつう不従順だとされないかね? つまり平和主義者とは、暴力に対して不従順な人であり、確固たる信念を持って首尾一貫した行動をとる人なのだ。その ような人は、自分の良心が正しくないと思うことを強制されて行うことはないので、自己の自由意志が侵害されないように戦っていることになる。
*集団的にも、たとえばある国が他国から侵略されたとしたら、防衛する権利がありますよね?
防衛権はあるが、それは常に平和的な解決策が尽きてからだ。
ガンジーの例を見てみれば、平和主義者と従順な者との違いが理解できるだろう。彼はまた、暴力に訴えなくても、崇高で公正な理念に対する信念と堅固な意志さえあれば、大きなことが成し遂げられることを証明してくれている。
大概の戦争や武力抗争は一朝一夕に起こるものではないし、それを引き起こしたいと思う人たちも少数派である。武力衝突の背後には一般的に、少数の者たちの 利己的な関心-つまりある物を独占したいという野望―があり、人びとを騙して汚い仕事をさせるのである。好戦的な野心家どもを指導者の地位から追放すれ ば、すべての戦争や暴力的な紛争が回避できることだろう。
*でも、ガンジーが成し遂げられたことは例外だと思うのです。たいてい、いつも強者が弱者を服従させます。それにそういう方法でも、多くの犠牲者が出ました。
戦争になっていたら、もっと多くの犠牲者が出たであろう。しかも君の言う通りであっても、人生の意味は政治的な闘争にあるのではなく、霊的進化にあるのだ。
それに、ある国が他国を不当に侵略していると君たちが思い、結局は強者が弱者を支配するのだとの結論に至ったとしても、今日の被侵略者が昨日の侵略者であ るかもしれず、過去にやったことを経験している可能性もあるのだ。人類の歴史を振り返れば、民族間の闘争は途切れることなく続けられてきたが、時代によっ て、抑圧者と被抑圧者の立場は入れ替わってきた。抑圧された民族は、ごくたやすく抑圧者となる。以前そうでなかったのは、抑圧者になりたくなかったわけで はなく、単になれなかっただけだからである。そしてこれは、全民族、全人種に、野心と貪欲や強欲に満ち溢れた非常に原始的なエゴを持った魂が転生していたからであり、誰が一番富と権力を掌握できるか と互いに争い合っていたからである。これまで人類を互いに争い合うように駆り立ててきたもの、そして現在においても駆り立てているものは、野心、貪欲、強 欲、そして狂信である。だが、どれほど強大な帝国であったとしても、どれも、時の流れと共に崩壊してしまった。愛の基盤がないものは短命なのだ。
以上のことから学びとるべきことは、野心と貪欲や強欲の姿を借りたエゴは多大な苦しみを生み出し、誰もその苦しみを味わいたくはないので、各自が心の中か らエゴを排除すべきであるということだ。この教訓を身につけたあかつきには、国家、民族、人種、宗教の間で、再び争いが起こることはないであろう。転生す る魂には、いかなる動機も兄弟を傷つけることを正当化できはしないし、そうすれば自分自身を傷つけることになると、はっきりわかっているからだ。