飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

生きるといふこと!!

2011-08-05 19:36:21 | エッセイ風

敢えて、『』を使った!!
『無常といふこと』という
小林秀雄の文章が頭をよぎったからである!


 かといって、高尚な文学記事を書こうとしているのではない。だが、氏の『・・・常なるものを見失ったからである。』という下りは、久しく妙にこびりついている。

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 無常と言うことと、生きるといふことと切っても切り離すことは出来ない。


 確かに、生きるといふことは、艱難辛苦に満ちている。四苦八苦とも言うが、生きるその様を言い表している。少し、敷衍(ふえん=広める)すると、

四苦とは生老病死のことである。八苦とはそれに愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦が加わる訳であるが、要するに、愛するものとの別れ、憎み合うものの邂逅(かいごう)、求めて得られず、沸き上がる心の不安である。

 兎も角、苦しみが伴うのが生きるといふことである。


 何のためにそんな苦しみに生きるかという疑問であるが、それは無常だからである。それらの苦しみは無常である。


 言わば、これは映画を見ている人とスクリーンの関係と同じだ。スクリーンに繰り広げられるドラマは、光源が絶たれるとすぐに消えてしまう。しかし、その間、鑑賞している人は、まさしく、ハラハラ、ドキドキのし通しである。時には、涙を流し、怒りに震え、恐怖を体験する。


 いわゆる、カタリシス効果だ。劇場を出た人は、良くも悪くも、少なくとも入る前とでは気分は一新している。これを劇的という。


 生きるといふことは、これと同じであろうと思う。生きる目的は何かと問われるなら、難しい話は抜きにして、生命(いのち)のカタルシス効果のためにあるのだろう。その為には、その生命(いのち)が、同じ無常であっては意味がない。


 ある登山家に『何故、山に登るのか?』と問うたという話がある。それは『山が、そこにあるからだ。』と、応えたという。本当かどうかは知らないが、有名な話である。

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 山登りは、きつい。ましてや、プロの登山家の登山に至っては尋常ではない。いわゆる命を賭している。それでも登山家は、並々ならぬ意欲を示す。その理由は、何か? 『山が、そこにあるからだ。』


 マラソンも同じであろう。野球であれ、相撲であれ、レスリング、ボクシングも同じだ。勝って、一瞬の『ヤッター』という達成感もあろうが、希である。それより、敗北する人の方が遙かに多い。場合が多い。


 それでも、人は生きる。何故であろうか?


 成功のために生きると言うが、それはそれはホンの一部で、そう願っている人は確かに多いが、大抵はその逆の場合が多い。大半は、勝利するより敗北のケースがほとんどだ。


 生きるといふことは、常なる観点から判断する必要がある。常なるとは永遠の意味である。


 生命(いのち)で言えば、永遠の生命(いのち)と言うことだ。生命(いのち)は永遠である、と言うことが仮にも必要だ。それがないと、本当に生きるといふことの謎が解けない。

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 普通、生きるというと、赤ん坊として生まれて、成人し、やがて死ぬまでの期間である。これは、まさしく、四苦八苦の世界である。それでも生きるために生まれたことは、間違いないであろうから、何がそうさせているのか?


 人が生きるといふことは、常なる観点を自ずから把持している事になる。逆論になるかも知れないが、人間誰しも永遠の生命(いのち)を持った存在であると言うことになる


 つまり、スクリーンの画面を眺めている本当の生命(いのち)の存在がある。自分の一生を、もう一人の自分が眺めている。そう考えざるを得ない。もう一人の自分が永遠の存在、つまり、常なるものだ。

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 この世は、言うまでもなく全ては無常だ。儚き夢である。そこに身を置き、様々な体験をする立体モーションピクチャーがこの世だ。その主人公は身を置いた自分であり、もう一人(常なる存在)が、その観客であると同時に、プロデューサーでもある。


 こう考えると謎が解ける。


 何故、人は生まれ、苦界に身を置き、生きようとするか? その謎が解ける。それは、もう一人の自分(常なる存在が計画したことだからである。その計画は、単なる無常の世界の成功物語ではないはずだ。

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 スクリーン上では、時には悪役も引き受けなければならない。失敗もシナリオにある場合がある。貧乏もあれば、苦難のシナリオも用意されている。主人公の自分は、その不運を嘆くが、もう一人の自分(常なる存在はそんなことは眼中にない。あるのは作品全体の総体評価である。


 評価と言えば、あまりにクールであるから、言い換えよう。もう一人の自分がプロデュースするにあたり、何を考えているかと言うことだ。観客ももう一人の自分(常なる存在であるから、媚びへつらいは必要ない。考えられるのは、豊富な体験と言うことになるだろう。


 そう、人生は体験を積むためにあるのである。生きるといふことは体験なのである。その重要性を無意識に認識しているから、人はひたすらに生きる。その事を裡(うち=こころ)に秘めているのだ。


 百人いれば、百様の人生がある。当然である。主人公は人それぞれの自分であって、百態の体験が生まれる。それをよしとしているもう一人の自分(常なる存在が必ず居る。その自分が駆り立てているから、無意識の意欲が存在する。これが生きる源泉力だと考えられる。


 もう一人の自分(常なる存在を魂と言い換えることも自由だろう。だから、魂は永遠である。永遠でなければならない。

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 その魂からすれば、この無常の世界はかけがえのないスクリーンと言うことが出来る。そして、それ故、それを望んで生まれて来る。これが実相だと考えている。


 最後に、幸せについて言及したい。


 多くの場合、願望が成就する事を幸せと考える。それには違いはないが、常なる観点に立つと、願望の成就が全てではなくなる。


 無常の世界では、勝った敗けたも一つの成果である。しかし、所詮はいずれも無常であるから、儚き夢に過ぎない。儲けた損したも同じだ。それらに託する幸福感も又同じ儚き夢である。

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 山に登頂した時の達成感、試合に勝った時の満足感、経済的に成功した時の充足感、これなども同じ刹那の話なので、夢の又夢だ。スクリーン上の一つのドラマの盛り上がりにはなるが、ストーリーはそれでは終わらない。


 山があれば谷がある。必ずある。山高ければ、谷深しは、無常の摂理だから、そんなものは永遠ではない。必ず、最終的には消えてしまう。


 幸せを常なる観点からすれば、『仕合わせ』とも言う。仕組み合わせとも読める。つまり、シナリオのことである。良きシナリオは良き人生と言うことになる。


 何を言いたいかというと、人生の中の一点の『ヤッター』の高揚感は、本当の幸福ではないと言いたいのである。本当の『仕合わせ』とは、人生全般の作品の出来加減で、言い換えれば、体験の豊富さを量るスケールと言いたいのである。


 その証拠に、長く生きた人ほど幸福感は大きいと言うことだ。そうでもない例外もあるが、その場合は、まだ、体験の途上にあって、味わう余裕のない状況だ。四苦八苦の最中に呻吟している状況だ。単に長く生きたから、シナリオを演じ終えたとは、必ずしも言えまい。しかし、長く生きた人の多くは、シナリオの終局面に立ってる。


 又、大きな幸福は、『仕合わせ』を噛みしめる度量を必要とする。それは、厳しいかも知れないが、本当の自分のシナリオを信ずることだ。そして、それにひたすらに生きてみることだ。


 それが、生きるといふ事だと考える。



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5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ここに書かれている通りだと感じています。私の不... (tt)
2011-08-05 20:34:15
ここに書かれている通りだと感じています。私の不思議な体験から生命は連続していると考える方が合理的なように感じています。近くに住む超能力者の人に私の過去世を見てもらったところ、結構納得するようなことをいろいろと言われました。

私は歴史上非常に有名な船に物心ついたときから強く強く惹かれるものがありました。それにまつわる不思議なことも沢山経験しています。このことを上記の超能力者に聞いたところ、私はこの船の設計に携わったそうなんです。さらにどの部分かも大体分かる気がします。また、この超能力者によると、私はこの船の進水を見ることなく、結核で死んだのだそうです。

会社で毎年健康診断がありますが、○○さんは以前結核か何かを患いましたかと毎年聞かれます。
願望が成就することが幸せ、とは仏教を語るにどう... (宵待ち草、)
2011-08-05 22:12:55
願望が成就することが幸せ、とは仏教を語るにどうであろうか。ましてや公の場で、ここまでの人と思ってしまうのも不徳故か。
生きるということについては私も常々意識しています。 (ひろみ)
2011-08-06 06:52:23
生きるということについては私も常々意識しています。
死ぬときに、やることやった、悔いは無いと思えるように、楽しかったと思えるように。


今日tuwitterで、「発酵と腐敗」について書いている方がいらっしゃって、
そこで例に出されていた、寺田啓佐さんという方が気になって、検索したら、この記事がヒットしました。
『失敗を誰かのせいにするのはやめよう』
蔵元・寺田本家23代当主 寺田啓佐
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/473
なかなか、深いことが書かれていました。


もしまだご存じなかったら、ご一読ください。
3.11以降の東北の復興を願って止まないが、政... (何時も記事ありがとうございます。)
2011-08-06 09:35:16
3.11以降の東北の復興を願って止まないが、政府の行動が理解不能で溜息ばかりの毎日です。

『新帝国循環』という言葉をご存知でしょうか?このカラクリを暴いた国士・吉川元忠氏は遺作となった『国富消尽』を脱稿した直後、2005年10月26日に急逝されていますが、生前、同氏は何者かに狙われていた(本人の発言による)といわれています。

http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/25902412.html
新ベンチャー革命2011年8月5日 No.414の記事です。

耳慣れない言葉『新帝国循環』ですが、このもやもや感を吹き飛ばせる内容の様に感じます。ご一読頂ければ幸いです。
数年前、ある月刊誌に掲載された (谷間の百合)
2011-08-06 11:31:16
数年前、ある月刊誌に掲載された
哲学者、池田晶子さんと死刑囚、陸田某の往復書簡を
読んだことがあります。
正確ではありませんが、そのなかで陸田死刑囚が
なぜ人を殺してはいけないかということについて
それはその人間から真理に出会うかもしれない機会を
奪ったことだ、と書いていたことにわたしは衝撃を受け、
以来、人はなぜ生きるのかという命題に直面するたびに
この言葉を思い出していました。


この言葉はまたいのちが永遠であることの傍証でもあります。
なぜなら、この短い一生のあいだに真理に出会うのはまさに
奇跡としかいいようがなく、殆どの人は何生も何生もこの苦界
を生きた末に真理に出会うものだと思うからです。
ここに、真理に出会う機会を持っているということに於いて
人間は平等だという法則が成立するのではないでしょうか
これが究極の機会均等ということではないでしょうか。


ほんとかどうか分かりませんが、仏教の教えの極意は
「何もしないこと」だと聞いたことがあります。
何一つ続いたためしがなく何一つ成し遂げたことがない
わたしは、神がこの極意に気付かせるためにあえてそう
したのかもしれないなんて虫のいいことを考えています。
しかし、幸せとは何かをした結果得られるものでしょうか。
何もしないことで得られる幸せもあるのではないでしょうか。


わたしは極度の出不精なので、女性の社会進出とか自己実現
がさかんに喧伝された時期は正直苦しかったです。
家に居るのが幸せなのになんで社会に出ていかなければ
いけないのかと。たしかに、働いている女性は美しく
憧れたこともありますが、贅沢せずに生活していければ
それでいいではありませんか。これがわたしに与えられた
環境なのだからと一人でブツブツ思うことがよくありました。


出不精ですから、月末お金が余ることがよくあります。
このときのリッチな気持ち、幸せな気分はお金持ちには
分からないだろうと思ってはいつもニンマリしているのです。
(こういうことを書きだしたらきりがありません.)

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