それは細君へのナビゲーターから始まった・・・
同じ巡回なら、巡礼も変わらない!
片手に杖(行き倒れの墓標代わり)
片手に般若心経を携える
それだけのことだ・・・・・!
般若心経が聖書でも同じ事であろう。
<今年は、柿の当たり年だ!>
そして、
祈り(意宣り)、聖書では、斯く奨めている。
『天にまします われらの父よ
願わくは御名(みな)をあがめさせたまえ
御国(みくに)をきたらせたまえ
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ
われらの日用(にちよう)の糧(かて)を今日も与えたまえ
われらに罪をおかすものを われらがゆるすごとく
われらの罪をもゆるしたまえ
われらを試みにあわせず 悪より救い いだしたまえ
国と力と栄えとは 限りなくなんじのものなればなり』
これと何等変わらない。般若心経とは言うまでもなく、お釈迦様の教えである。お釈迦様はゴーダマ・シッタルダ、悟って釈迦牟尼と名乗った。仏陀(ブッダ、梵:????? buddha)は、仏ともいい、悟りの最高の位「仏の悟り」を開いた人を指す。buddha はサンスクリットで「目覚めた人」「体解した人」「悟った者」などの意味である。)
講釈は関係ない。投稿者にとっては、イエスも仏陀も同列である。
だから、巡礼していても、願い事はほとんどしない。祈り(意宣り)はする。その祈りとは・・・上記とほとんど変わらない。『仏の意のごとく、あらしめたまえ』である。
出来るだけ、心の静寂を保つようにする。すると、心臓の鼓動が自然とよく聞こえるようになる。暑さ寒さも埒外の命の営みが感じられる。それは自分に意志に関係なく、そして、欲得に関係なく、只、動いている不可思議さを感じる。生かされているほか無いと実感する。
そう実感するほか無くなる。
一連の作法があるから、誓いから始まり、真言を唱える。そして、般若心経を読経する。文字通り、読経するのである。意味など取りあえず、関係ない。しかし不思議なことに、その意味が身体に沁みてくるから不思議だ。
最後は
羯諦 ぎゃーてー (行きて)
羯諦 ぎゃーてー (行きて)
波羅羯諦 はーらーぎゃーてー (悟りの彼岸に行きて)
波羅僧羯諦 はらそーぎゃーてー (悟りの極みに行きて)
菩提薩婆訶 ぼーじーそわかー (悟りよ幸あれ)
般若心経 はんにゃーしんぎょう ( ここに、智慧の完成に至る者の心を終える)
で終わるが、意味は少し違う。
輝け、輝け
天上の様に輝け
天使の様に輝け
そして、周りを輝かせ
ここに智恵の教えがここにある
まあ、意訳である。
さて、細君は娘時代に親と共に、四国八十八カ所巡りに同行した。途中で頓挫した。ある時、友人により、それを呼び起こされた。
『お父さん(投稿者のこと)、お四国に行きたい。』
藪から棒にと、少し、たしなめたが、取りあえず、一人で行くことになった。途中から、可哀想になって、ナビゲーターとして同道した。一巡目を完成し、二巡目も終えた。高野山に参詣し、二巡目も完成した。一巡目の高野山参詣は、かつて、既に終えていた。
三巡目の同道の時、一番札所霊山寺から、『どうせのことなら・・・』と、巡礼に加わった次第だ。納経書を用意し、経書をもって、同道した。一応、先達(せんだち)は細君、投稿者は唯一の巡礼団員だ。
今、細君は五巡目、投稿者は三巡目だ。
投稿者一巡目の途中、投稿者の実父が本当にあっちに逝った。で、形見の白装束で本格的になった。別に取り立てて巡礼の意気込みがある訳ではないが、悪くはない。
一応、やるからには威儀を糾し、作法通りにやる。
灯明を上げ、線香を燻し、真言、読経を上げる。本堂、太子堂に参詣する。勿論、徒歩は無理だから、車両を使う。一日多い時、約10寺を廻る。少ない時は4~5寺になる。
月に一、二度。出来ない時もある。
こうして、年に一度は四国八十八カ所巡りが完成する。
驚くべき事に、それを100回、200回と熟している強者が居る。最高は400回越えの80余才の矍鑠(かくしゃく)老人に出会った。細君はその方から、お札を拝受したのが切っ掛けらしい。大切に保持している。
そう言う方々は、ほとんど巡礼三昧の日々だ。そうでなくては到底、なし得ない。
四国八十八カ所が有名だが、日本には各所に巡礼札所があって、珍しい話ではない。西国八十八カ所巡りとか、九州八十八カ所巡りとかもあるようだ。他にもあるだろう。
人生は旅人のようなものである。巡礼とはそれを模したものであると考える。そう思って、日常の柵を一切捨てて、しばし逝くのは乙なものである。発想もよく湧く。
そんなに金も掛からない。足腰の鍛えにもなる。何より、柵がないから、心が洗われる。純粋な心を取り戻すには、格好の手段となっている。
『イエスも仏陀も同列である』は、私も同じように感じます。
モーゼ、仏陀、イエスの流れには何か凄い秘密があるような気がしてなりません。以前、ちらっとそのようなことを聞いたことがあります。
現代の仏陀といえば、何といってもジッドゥ・クリシュナムルティーでしょうね。
弁髪にして太鼓を叩いて踊る、あのハリークリシュナとは全く無関係です。
88ヶ所は空海が巡礼者を剣山(ユダヤの契約の箱賀あるとも・・)に近づけさせないように周りを回らせているとも・・・。
ユダヤと剣山と空海 なんかつながりがあるのかな・・・。
神秘的です。
実は、我が家の本家は、阿波(徳島)です。 祖父の代に阿波を後にしたそうです。 ですから、実父は阿波育ちでした。 三代目になると、付き合いも疎遠になりましたが、昔は、本家との交流がありました。
なんでも、本家は、その昔には、侍だったそうです。 そのせいでしょうか、実父の系統は、皆、体格が立派でした。 実父も、侍の末裔のせいか、運動能力に優れ、旧軍時代には、銃剣道の選手に選ばれていたそうです。 徳島時代の昔話をよくしていました。
私は、西国八十八所のごく一部しか知りません。 でも、いつか行ってみたいです。 本家の人も、阿波へおいで、と言ってくれていますので、事情が許せば転居したいぐらいです。