飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

四国八十八カ所巡礼-お四国霊場巡り

2011-11-01 12:40:21 | エッセイ風

それは細君へのナビゲーターから始まった・・・
同じ巡回なら、巡礼も変わらない!
片手に杖(行き倒れの墓標代わり)
片手に般若心経を携える
それだけのことだ・・・・・!


 般若心経が聖書でも同じ事であろう。

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<今年は、柿の当たり年だ!>


 そして、


 祈り(意宣り)、聖書では、斯く奨めている。


 『天にまします われらの父よ

 願わくは御名(みな)をあがめさせたまえ

 御国(みくに)をきたらせたまえ

 みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ

 われらの日用(にちよう)の糧(かて)を今日も与えたまえ

 われらに罪をおかすものを われらがゆるすごとく

 われらの罪をもゆるしたまえ

 われらを試みにあわせず 悪より救い いだしたまえ

 国と力と栄えとは 限りなくなんじのものなればなり』


 

 これと何等変わらない。般若心経とは言うまでもなく、お釈迦様の教えである。お釈迦様はゴーダマ・シッタルダ、悟って釈迦牟尼と名乗った。仏陀(ブッダ、梵:????? buddha)は、仏ともいい、悟りの最高の位「仏の悟り」を開いた人を指す。buddha はサンスクリットで「目覚めた人」「体解した人」「悟った者」などの意味である。)


 講釈は関係ない。投稿者にとっては、イエスも仏陀も同列である。


 だから、巡礼していても、願い事はほとんどしない。祈り(意宣り)はする。その祈りとは・・・上記とほとんど変わらない。『仏の意のごとく、あらしめたまえ』である。


 出来るだけ、心の静寂を保つようにする。すると、心臓の鼓動が自然とよく聞こえるようになる。暑さ寒さも埒外の命の営みが感じられる。それは自分に意志に関係なく、そして、欲得に関係なく、只、動いている不可思議さを感じる。生かされているほか無いと実感する。

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 そう実感するほか無くなる。


 一連の作法があるから、誓いから始まり、真言を唱える。そして、般若心経を読経する。文字通り、読経するのである。意味など取りあえず、関係ない。しかし不思議なことに、その意味が身体に沁みてくるから不思議だ。


 最後は

羯諦     ぎゃーてー     (行きて)
羯諦     ぎゃーてー     (行きて)
波羅羯諦     はーらーぎゃーてー      (悟りの彼岸に行きて)
波羅僧羯諦     はらそーぎゃーてー    (悟りの極みに行きて)
菩提薩婆訶     ぼーじーそわかー      (悟りよ幸あれ)
般若心経     はんにゃーしんぎょう     ( ここに、智慧の完成に至る者の心を終える)


で終わるが、意味は少し違う。


輝け、輝け

天上の様に輝け

天使の様に輝け

そして、周りを輝かせ

ここに智恵の教えがここにある


 まあ、意訳である。


 さて、細君は娘時代に親と共に、四国八十八カ所巡りに同行した。途中で頓挫した。ある時、友人により、それを呼び起こされた。



 『お父さん(投稿者のこと)、お四国に行きたい。』

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 藪から棒にと、少し、たしなめたが、取りあえず、一人で行くことになった。途中から、可哀想になって、ナビゲーターとして同道した。一巡目を完成し、二巡目も終えた。高野山に参詣し、二巡目も完成した。一巡目の高野山参詣は、かつて、既に終えていた。


 三巡目の同道の時、一番札所霊山寺から、『どうせのことなら・・・』と、巡礼に加わった次第だ。納経書を用意し、経書をもって、同道した。一応、先達(せんだち)は細君、投稿者は唯一の巡礼団員だ。


 今、細君は五巡目、投稿者は三巡目だ。


 投稿者一巡目の途中、投稿者の実父が本当にあっちに逝った。で、形見の白装束で本格的になった。別に取り立てて巡礼の意気込みがある訳ではないが、悪くはない。


 一応、やるからには威儀を糾し、作法通りにやる。


 灯明を上げ、線香を燻し、真言、読経を上げる。本堂、太子堂に参詣する。勿論、徒歩は無理だから、車両を使う。一日多い時、約10寺を廻る。少ない時は4~5寺になる。

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 月に一、二度。出来ない時もある。


 こうして、年に一度は四国八十八カ所巡りが完成する。


 驚くべき事に、それを100回、200回と熟している強者が居る。最高は400回越えの80余才の矍鑠(かくしゃく)老人に出会った。細君はその方から、お札を拝受したのが切っ掛けらしい。大切に保持している。


 そう言う方々は、ほとんど巡礼三昧の日々だ。そうでなくては到底、なし得ない。


 四国八十八カ所が有名だが、日本には各所に巡礼札所があって、珍しい話ではない。西国八十八カ所巡りとか、九州八十八カ所巡りとかもあるようだ。他にもあるだろう。


 人生は旅人のようなものである。巡礼とはそれを模したものであると考える。そう思って、日常の柵を一切捨てて、しばし逝くのは乙なものである。発想もよく湧く。


 そんなに金も掛からない。足腰の鍛えにもなる。何より、柵がないから、心が洗われる。純粋な心を取り戻すには、格好の手段となっている。


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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
四国八十八カ所巡礼、良いですね。懐かしいです。... (tt)
2011-11-01 20:37:15
四国八十八カ所巡礼、良いですね。懐かしいです。私は高校を卒業後、四国で働いておりました。あちこち行きましたが、本当に懐かしいです。

『イエスも仏陀も同列である』は、私も同じように感じます。
モーゼ、仏陀、イエスの流れには何か凄い秘密があるような気がしてなりません。以前、ちらっとそのようなことを聞いたことがあります。

現代の仏陀といえば、何といってもジッドゥ・クリシュナムルティーでしょうね。
弁髪にして太鼓を叩いて踊る、あのハリークリシュナとは全く無関係です。
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四国 発心の国より (青い鳥)
2011-11-02 17:24:39
四国 発心の国より

88ヶ所は空海が巡礼者を剣山(ユダヤの契約の箱賀あるとも・・)に近づけさせないように周りを回らせているとも・・・。

ユダヤと剣山と空海 なんかつながりがあるのかな・・・。
神秘的です。
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 良いですね。 四国。 西国八十八所。 (とら猫イーチ)
2011-11-03 10:59:03
 良いですね。 四国。 西国八十八所。
実は、我が家の本家は、阿波(徳島)です。 祖父の代に阿波を後にしたそうです。 ですから、実父は阿波育ちでした。 三代目になると、付き合いも疎遠になりましたが、昔は、本家との交流がありました。 
 なんでも、本家は、その昔には、侍だったそうです。 そのせいでしょうか、実父の系統は、皆、体格が立派でした。 実父も、侍の末裔のせいか、運動能力に優れ、旧軍時代には、銃剣道の選手に選ばれていたそうです。 徳島時代の昔話をよくしていました。 
 私は、西国八十八所のごく一部しか知りません。 でも、いつか行ってみたいです。 本家の人も、阿波へおいで、と言ってくれていますので、事情が許せば転居したいぐらいです。
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