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融通無碍 翼を休めてみませんか

新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

明日は礼拝です

2015年08月29日 | 礼拝のご案内

 明日、8月30日(日)は、主日礼拝です。午前9時からの教会学校は、お休みします。10時からは讃美歌練習、10時15分から礼拝が始まります。メッセージは「神に向かって教えを説いた」、讃美歌は「このこどもたちが」(今月の歌)、「くすしきみ恵み」、「信仰こそ旅路を」です。礼拝後は、祈りの一時、それから、会堂清掃の後、、お茶の一時があります。ご興味のある方は、どなたでもご出席ください。

 ここ浜坂では、稲刈りが始まりました。美味しいお米が収穫できますように。子どもたちにとって、楽しかった夏休みも、月曜日で終わります。宿題とか、未だの子どもは大変でしょう、頑張れ!

 


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徴兵制ではない。インターンだ!

2015年08月29日 | 日記

 徴兵制ではない、インターンだそうです。言い方を変えれば、それで良いと考えているのでしょうか。何と愚劣で低級なことか。徴兵制に向けて、異口同音です。

 ↓ 画像をクリックすると、記事へ移動します。


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穴文殊に行ってみた

2015年08月28日 | 日記

 京丹後市にある、穴文殊というところに行って来ました。立派なお寺の本堂もそうですが、これまた大きく立派な松の木がありました。相当な樹齢かと思われます。穴文殊というのは、海の侵食によって穴が開いている景観のことで、保存することが望ましいそうです。雄大な地形と、そこに信仰の対象としてのお寺があり、地域の人々にとっての憩いの場であり、大きな心のよりどころではないかと思います。

 

 お寺の本堂のまわりでは、セニアカーに乗られている方が、熊手を手にして、セニアカーを運転しながら境内の落ち葉を集めておられました。思わず、「御苦労様です」と声をかけると、軽く頷かれて返事をしてくださいました。帰り際には、反対に声をかけてくださり、車の駐車場所について気遣ってくださいました。地域の方と思われますが、本当に穴文殊が綺麗に管理されているのは、地域の方々の思いであるということを感じました。

 

 ここ、穴文殊は、自衛隊の駐屯地と米軍基地に挟まれるような形で建っています。フェンスや目隠しがされていますが、往来する自衛隊員や米兵の姿、そしてレーダー設備から発せられる低周波やレーダー波など、なんだか、不釣り合いな環境のように思われます。また、レーダー施設は、特に重要な施設ということで、もしもの場合には、真っ先に攻撃を受ける対象だそうです。実に、数奇な運命にさらされているのが穴文殊ではないかと思いました。

 国道で、米兵とすれ違いましたので、「こんにちわ」と声を掛けると、すぐさま「コンニチワ」という返事が返ってきました。綺麗な黒人の女性でした。会話ができたことを素直に喜びたいのですが、あまりに出来過ぎの感もあり、これも訓練の成果なのかなぁ、と複雑な心境です。今度は、男女、二人の米兵に「こんにちわ」と声を掛けてみました。二人は、仲良くおしゃべりをしていました。ピンク(白)人でした。二人は、イエロー・モンキーから声を掛けられるとは思っていなかったのか、一瞬、躊躇しつつも「コンニチワ」と返事をしてくれました。これもまた複雑な心境です。

 誰一人として、殺し合いなどしないで済むような世界であるようにと、祈るばかりです。

 


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山本太郎8/25「総理との一騎打ち 」【全19分】

2015年08月27日 | 日記

 過去に行ったことを検証し、将来、行おうとしていることに生かすということ、これのどこがおかしいことなのでしょうか。しごく、まっとうな意見ではないかと思います。裏を返せば、それだけ国会ではマトモな議論も成り立たないくらいだということでしょうか。

 仮に検証などして、米軍の行ったことが戦争犯罪になってしまうと都合が悪いから、検証などしないというのなら、もう初めっから国際法など守る気などないということを言っているようなものですね。言葉には表さないだけで、愚劣な考えだと思います。

 

山本太郎8/25「総理との一騎打ち 」【全19分】


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「争うだけしかできなかった」

2015年08月27日 | 聖書のお話

「争うだけしかできなかった」 創世記 4章1~16節

 宗教の世界では、偉くなればなるほど善悪の判断を偉い人がするようになるものではないでしょうか。かつて、神の民であるイスラエルの王国では、指導者が善悪の判断を自らの判断で下し、様々な内政・外交政策の間違いを犯した結果、王国を滅亡へと導き、バビロン捕囚の憂き目に遭ったと言えるのではないかと思います。創世記には、「善悪の木の実」を食べると、人は善悪の判断を自ら下すようになることが記されています。問題は、人が善悪の判断を下すとき、本当に正しい判断ができるのか、もしかすると他人を裁くことでしかなかったり、他人と争うことでしかないものではないかということを、いつも心の内に忘れないようにしておくことが求められているのではないでしょうか。

 カインは、礼拝の場で信仰が問われました。つまり、神さまが弟である「アベルとその捧げ物に目を留められ」、「カインとその捧げ物に目を留められなかった」ことに怒りを覚えました。その結果、カインは、弟のアベルを殺してしまうという暴挙に出ました。これもまた、善悪の判断を自らの判断によって下した結果ではないでしょうか。善悪の判断を自ら下した結果、神さまから目を留められた人を殺し、自らは罪を重ねてしまうばかりというのが、人間の現実・限界というものなのかもしれません。たとえ、善悪を知り尽くすほどの高い知識を得ることができたとしても、争うだけしかできない存在が私たちではないかと思います。バビロン捕囚の脈絡で考えたとき、善悪の判断を自ら下してしまった結果、バビロンで捕囚の身になっているということではないでしょうか。その反省に立つなら、いかなる場合であっても、神さまの判断を待つ忍耐と、神さまの判断に委ねる謙遜こそが信仰ではないかと思わされます。

 


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