「十字架を担うイエスだった」 使徒言行録 9章1~19節a
サウロは、熱心なユダヤ教徒でした。その熱心さのあまり、イエスさまを信じるユダヤ人を男女の別なく縛り上げ、牢屋に入れていました。そして、殺しても構わないという意気込みをもって、ダマスコへと向かっていました。その途上で、突然天からの光が彼の周りを照らしたので、彼は地に倒れてしまいました。そのとき、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける、イエスさまの声を耳にしました。イエスさまは、迫害された者の痛みに寄り添い、まるで自分が受けた痛みであるかのように受け止めていたことが伝わってきます。また、サウロも三日間、目が見えず、食べも飲みもしませんでした。まるで、イエスさまが陰府(よみ)に降り、三日間そこにおられたことに寄り添い、自分の痛みとして経験したということが伝えられているようです。
イエスさまは、サウロのことを「わたしの名を伝えるために選んだ器」と言われました。そして、「わたしの名のために、どんなに彼が苦しまなければならないかを示そう」とも言われました。苦しみとは、権力者から受けた苦しみ、弱い立場の者が受けた苦しみ、自由や人権を奪われた者の苦しみ、命を奪われた者の苦しみ、それらはみな、イエスさまが十字架で受けた苦しみのことです。イエスさまの愛を宣べ伝えるための器とされた者は、それらの痛みや苦しみに寄り添うことが必要とされているように思います。イエスさまが、迫害された者の痛みをご自分の痛みとして受け止められたように、十字架を担うイエスさまの痛みを自分の痛みとして受け止め、他者の痛みや苦しみに寄り添うことができる者でなければ、イエスさまの愛を宣べ伝える器(宣教者)として立つことなどできないと戒められているように思います。