融通無碍 翼を休めてみませんか

新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

「旧約聖書を持ち出し、AIを利用してパレスチナ人を虐殺するイスラエル政府」という記事のご紹介

2024年04月10日 | 日記

 櫻井ジャーナルさんの記事のご紹介です。イスラエルが4万人に迫ろうかという一般人虐殺を進めている理由がよく分かるような内容です。

 ところで、旧約聖書の神さまは、自分を引き合いに出されて何かされるのを極端に嫌うんじゃなかったでしょうか。神さまである自分の名前を呼ばれることも嫌い、そのうち人々は神さまの名前を忘れてしまったという笑い話ようなことも伝えられています。また、神さまは自分の顔を見られるのも極端に嫌い、顔を光らせて見ようとする者の目を幻惑させたりもしています。要するに、騙られるのを嫌っているのです。

 そうすると、人間が「神さまはこう命じている」とか言って何かをするなら、それらは全て嘘であることになります。信仰とは、人間の域を超えた存在を認めるということです。人間の域を超えているのですから、よく話題にされているように、「どこそこの神さまは良い」とか「正しい」とか、人間が分かる訳がないのです。そのような意味で御利益追及は、信仰とは別の問題なのです。信仰は、それを信じる人の生き方に現れるだけなのです。

 いずれにしても、神さまが「あいつを殺せ」と命じたから殺すのだとしたら、「おまえは死ね」と命じられたなら死ぬんですかってことです。神さまが殺したければ、自分でやればよいし、人に殺させて罪を犯させるなよって話です。「汝、殺すなかれ」でしょう。あ、あれは自分の仲間だけに適用する戒めですか。でも、自分を信じる仲間だけと言うのは、何だか心の狭い話ですね。それなら、信じるに値しません。いや、そもそも信じているようなフリをしている人たちが、今のような殺戮を繰り広げているのでしょう。信仰とかの話では全然ありません。あの地域で利権を押さえたいだけの話であって、信仰の装いをした政治的利益の追求に他なりません。

 信仰的装いをして政治的利益のために神さまが利用されているのですから、しかも大量殺戮が繰り広げられているのですから、神さまが怒らない筈がないと思います。そのうち、天罰が下るでしょう。天罰が下らなかったとしたら、そもそもユダヤ教の神さまなんて存在していなかったということになるのでしょうか。何だか、色々と難しい・・・。

 


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする