今日は、教会暦で「子どもの日(花の日)」です。
「子どもの日(花の日)」は、今から150年ほど前、アメリカのメソジスト教会で始まったと伝えられています。当時は、6月が学年の変わる時期にあたり、進級する子どもたちをお祝いする行事であったとのことです。また、お花が綺麗な季節とのことで、お見舞いや慰問がなされるようになったとのことです。
浜坂教会でも、この日に教会学校の子どもたちで、浜坂駅前交番を訪ね、教会員さんが作ったお花のバスケットと、日頃の感謝とお便りを書いた寄せ書きを添えてお渡ししています。今年は、用事があってお休みしている子どもも多く、子ども5名と大人2名でお訪ねしました。
帰りには、栄町公園に立ち寄って、掃除をしました。ジュースの缶、お菓子の袋、どういう訳か大量の輪ゴムが捨ててあったり、人目がつきにくいところに大量のタバコの吸い殻が・・・。掃除が終わったとき、今にも雨が降りそうだったのと、蚊も出てきたので、公園で遊ぶのはやめて、教会に帰っておやつを食べ、「なんじゃもんじゃ」というゲームをしました。
ゲームは盛り上がり、礼拝開始時間になりましたが、途中で腰を折るのも申し訳なく思い、礼拝開始時間を10時30分の定刻から11時にしました。丁度、お二人の教会員さんが、一人は地域の草刈りのため、一人は別の行事のため礼拝を欠席されるとお聞きしていましたので、他に出席者もなかったため、そうしました。今日は、「子どもの日」なので、それで良いと思いました。融通無碍です。
11時になり、私と連れ合いと娘の3人で礼拝を守りました。お話は、「未来に目を向ける」でした。今、子どもの祝福を祈るとすれば、同時に子どもたちの未来をも守ろうとする思いも必要だと思ったからです。それで、香住と久美浜に原子力発電所を建てようとした50年前の経過を概観しながら、マルコによる福音書10章13節から16節を学びました。
子どもたちが好きだとか、子どもたちを守りたいだとか思ったとしても、原子力発電で使用済み燃料などの放射性廃棄物をどんどん作り出しているようでは、未来の子どもたちの世代を汚し、破壊しているのも同然です。自分が受ける利益だけを考え、思考停止に陥ってしまい、結果、子どもたちの未来に目を向けようとしない身勝手な大人の姿に暗澹たる思いがします。
今日の「子どもの日(花の日)」に、イエスさんを信じる者として、イエスさんの教えを悔い改めをもって受け止め、子どもたちの未来に目を向けるような生き方をしたいものだと思わされました。