「謝る前から赦されていた」 ヨハネによる福音書 20章19~29節
弟子たちは、ユダヤ人を恐れて自分たちのいる家の戸に鍵をかけ、隠れていました。けれども、それで恐れる必要がなくなったかというと、そうではありませんでした。弟子たちは、誰からも赦してもらえない状況だったので、心の内にある恐れが取り除かれずに残っていたのではないでしょうか。
復活されたイエスさまは、弟子たちに現れて「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」と言われました。このことは、弟子たちに罪を赦すことのできる権能が与えられたというのではありません。罪を赦すことができるのは、十字架と復活のイエスさま以外にはおられません。弟子たちには、人の罪を赦す権能などありません。
「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」という教えは、ひたすら赦し続けなさいということではないでしょうか。そして、ひたすら赦すことができないでいたら、赦されないまま残ってしまった罪によって、弟子たちが赦さなかったという証拠が残るということではないでしょうか。
弟子たちは、心の内より湧き出て来る恐れがあり、罪意識がありました。弟子たちは、十字架と復活のイエスさまに赦されたことによって平和を得ることができるようになりました。しかも、謝る前から赦されていたのです。謝罪をしたから赦されたのではありません。それは、人間的な赦しのことです。イエスさまの赦しは、そのような人間的な赦し、条件つきの赦しではありません。
イエスさまは、聖霊の助けによって、イエスさまのように人から謝罪される前から赦しなさいと教えているのではないかと思います。ただ、ひたすら赦して赦し続けることを通して、イエスさまが十字架と復活によって罪を赦すことのできるお方であることを証すること、それが宣教であると教えられています。
弟子たちは、ユダヤ人を恐れて自分たちのいる家の戸に鍵をかけ、隠れていました。けれども、それで恐れる必要がなくなったかというと、そうではありませんでした。弟子たちは、誰からも赦してもらえない状況だったので、心の内にある恐れが取り除かれずに残っていたのではないでしょうか。
復活されたイエスさまは、弟子たちに現れて「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」と言われました。このことは、弟子たちに罪を赦すことのできる権能が与えられたというのではありません。罪を赦すことができるのは、十字架と復活のイエスさま以外にはおられません。弟子たちには、人の罪を赦す権能などありません。
「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」という教えは、ひたすら赦し続けなさいということではないでしょうか。そして、ひたすら赦すことができないでいたら、赦されないまま残ってしまった罪によって、弟子たちが赦さなかったという証拠が残るということではないでしょうか。
弟子たちは、心の内より湧き出て来る恐れがあり、罪意識がありました。弟子たちは、十字架と復活のイエスさまに赦されたことによって平和を得ることができるようになりました。しかも、謝る前から赦されていたのです。謝罪をしたから赦されたのではありません。それは、人間的な赦しのことです。イエスさまの赦しは、そのような人間的な赦し、条件つきの赦しではありません。
イエスさまは、聖霊の助けによって、イエスさまのように人から謝罪される前から赦しなさいと教えているのではないかと思います。ただ、ひたすら赦して赦し続けることを通して、イエスさまが十字架と復活によって罪を赦すことのできるお方であることを証すること、それが宣教であると教えられています。