マルコによる福音書 8章27~38節
イエスさまは、弟子たちたちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねられました。弟子たちは、「洗礼者ヨハネ」とか、「エリヤ」とか、また「預言者の一人だ」と言っている人がいるということを伝えました。イエスさまは、病気の人を癒したり、奇跡を行ったりして、神の国を宣べ伝えていましたので、ユダヤの人々は、そんなイエスさまのことを、ユダヤの国を独立させてくれる救世主=メシアではないかと考えていたようです。そして、イエスさまの弟子たちも、イエスさまのことを「メシア」であると言いました。マルコによる福音書には、ユダヤの人々も、イエスさまの弟子たちも、イエスさまのことをユダヤの国を独立させてくれる救世主=メシアのように考えていたということが伝えられています。
けれども、イエスさまは、ご自分のことを格好よくユダヤの国を独立へと導くメシアではなく、辱められ、むち打たれ、殺されてしまう、十字架を担うメシアであることを弟子たちに明言されました。すると、ペトロはイエスさまを脇へ連れて行き、いさめ始めました。マタイによる福音書の言葉を借りると、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と、イエスさまの言葉さえ否定したというのです。そのとき、イエスさまはペトロに「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」と言い、厳しい口調で叱りつけました。
私たちもまた、自分に都合の良い人間的な思いに囚われてしまうとき、イエスさまの教えを忘れてしまうことがあるのではないでしょうか。イエスさまは、自分を捨て、自分の十字架を背負って私の後に従いなさいと教えられました。自分を捨てるとは、欲望や誘惑、人間的な思いを捨て去るということです。そして、自分の十字架を背負ってイエスさまの後に従うとは、人からどのように思われようとも、イエスさまと二人三脚して生きるということです。それこそが、本当の信仰というものではないでしょうか。
イエスさまは、弟子たちたちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねられました。弟子たちは、「洗礼者ヨハネ」とか、「エリヤ」とか、また「預言者の一人だ」と言っている人がいるということを伝えました。イエスさまは、病気の人を癒したり、奇跡を行ったりして、神の国を宣べ伝えていましたので、ユダヤの人々は、そんなイエスさまのことを、ユダヤの国を独立させてくれる救世主=メシアではないかと考えていたようです。そして、イエスさまの弟子たちも、イエスさまのことを「メシア」であると言いました。マルコによる福音書には、ユダヤの人々も、イエスさまの弟子たちも、イエスさまのことをユダヤの国を独立させてくれる救世主=メシアのように考えていたということが伝えられています。
けれども、イエスさまは、ご自分のことを格好よくユダヤの国を独立へと導くメシアではなく、辱められ、むち打たれ、殺されてしまう、十字架を担うメシアであることを弟子たちに明言されました。すると、ペトロはイエスさまを脇へ連れて行き、いさめ始めました。マタイによる福音書の言葉を借りると、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と、イエスさまの言葉さえ否定したというのです。そのとき、イエスさまはペトロに「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」と言い、厳しい口調で叱りつけました。
私たちもまた、自分に都合の良い人間的な思いに囚われてしまうとき、イエスさまの教えを忘れてしまうことがあるのではないでしょうか。イエスさまは、自分を捨て、自分の十字架を背負って私の後に従いなさいと教えられました。自分を捨てるとは、欲望や誘惑、人間的な思いを捨て去るということです。そして、自分の十字架を背負ってイエスさまの後に従うとは、人からどのように思われようとも、イエスさまと二人三脚して生きるということです。それこそが、本当の信仰というものではないでしょうか。