Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

与田切川の壁

2006-09-15 08:15:36 | 自然から学ぶ


 天竜川上流河川事務所のホームページに「空から見た天竜川」というものがあり、上空から天竜川周辺を撮影した写真が公開されている。今までにも何度も触れている与田切川合流点を中心にした写真がある。その写真をまず見てみる。中央あたりから左上にさかのぼっている川が与田切川である。真ん中左手あたりに広めの道が若干カーブしながら上に向っているが、これが国道153号で「本郷バイパス」で紹介した場所である。川左が飯島町本郷で、右側が飯島町飯島。真ん中上部の住宅密集地が飯島のマチにあたる。そこから右下に広がる水田地帯が鳥居原地籍となる。「手の届かない川」や「与田切川の変化」で触れた崖の上になる。この写真がいつ撮影したかはっきりしないが、そう昔のものではないのだろう。川の右手の崖下にいかにも土砂が落ちた上に緑が広がっているようにも見える場所が、「与田切川の変化」で紹介した写真とはずいぶん違うことに気がつく。崖そのものも上の方は土の色が見えているが、下の方は緑で覆い尽くされている。

 ここで今回紹介する写真と見比べてみる。昭和59年ころの写真で、「与田切川の変化」で触れた写真と同じころである。撮影したのは、上空から撮影されたものの真ん中左手の国道が段丘を掘り割るあたりの段丘上である。ここから当時の崖は上から下まですべて土が剥き出しになっていることがわかるだろう。約30年でここまで変化するとなると、昭和初期とか明治のころはどうだったのだろうと思ったりする。ちょうど崖の真ん中あたりに少し木が張り付いているが、現在はこのあたりまで緑で全面覆われてしまっている。写真真ん中あたりの崖上のこんもりした場所がトヤゴ城と言われる城跡である。その左手木々が崖に垂れ下がるように覆っている場所は「空堀」となる。この空堀は天竜川の方向にもあって、人為的に造られたものと言われる。その堀の左手の林は二郭でその左手も作られた堀なのだろう。このトヤゴ城については詳しいことが解っていないようだ。いずれにしても戦国時代のものである。当時もこれほどの見事な崖になっていたのか、30年でもだいぶ変化しているところをみるとどうだったのだろう。もうひとつこの30年での大きな変化は、城跡あたりの木々の変化である。現在はこの跡に生えている松は、ほとんど茶色と化している。いわゆる「松枯れ」というやつである。無残な姿となっている。

 写真の川手前の水田地帯は、戦後になってから開田されたものだろう。昭和50年にほ場整備された際には、この開田された区域は整備済みということではずされたはずだ。真ん中左手の家が一軒あるあたりから左手はほ場整備されて変わっている。加えて一軒やの左手のあたりの林は、現在はなくなっていて、上空からの写真でもわかるように、ここにグランドが整備されている。

 城跡から右手に向って段丘は天竜川へ落ちていっているが、その向こうの山裾の傾斜地に畑の姿が見える。中川村飯沼地籍で、現在のこのあたりの様子をみると、これほど畑らしい姿はない。この畑の下に主要地方道伊那生田飯田線が走っている。天竜川とこの畑との間は急峻な崖となっていて、その間に狭い県道がある。昭和初年に現在の中部電力南向発電所が作られる際、駒ヶ根市吉瀬から中川村葛島まで送水管の隧道を掘った。この際の作業用の道路として造られた道路で、現在も昔のままの幅の場所が多い。城跡の向こう側の山肌は、飯島町日曽利というところで、もとは旧南向村の地籍だった。その大方は現在の中川村となっているのだが、この日曽利は分離して飯島町分となった。日曽利と飯沼を結ぶ道路は「ヨケ」といわれ、牛馬が通るには難所だったようである。ちなみに「アレチウリ」で触れた場所は、その県道である。

 さて、今までにも何回か触れたが、この見事な崖にまっすぐ向って国道バイパスが予定されている。この写真のイメージでは「本当に・・・」と思うが、緑に覆われ始めた崖を見ると、それほど違和感はないかもしれない。
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平岡ダムから

2006-09-14 08:10:39 | 歴史から学ぶ
 「夢の弾丸道路」に紹介した資料とともに、平岡ダムの設計図が1枚まぎれている。「GENERAL DESIGN OF HIRAOKA PROJECT」と表記された図には、ダム周辺の平面図とダム本体の平面、および正面の図、断面図が描かれている。1/5000の平面図には国鉄飯田線が表示されていて、満島駅が描かれている。現在の平岡駅のことである。ウィキペディアによれば、堤高62.5m、 堤頂長258.0mという。図面に表示されている数字を見てみよう。堤の最低部の床の高さは250.00m、堤頂の高さは349.50mとある。したがって打設されたコンクリート部の高さは65.5mということになる。幅9mの窓が16箇所あり、正面図からみると、12のブロックでコンクリートが打設されている。堤頂の長さは、258.555mとある。ダム直上にある圧力トンネルは、直径6.8mあり、2本開けられ、下流の松島まで700mほど導水されている。図には1951.1.22と書かれている。昭和26年のことである。この年に平岡ダムは完成している。

 実はこのダムは戦時中に建設が始まっている。昭和13年に始まった工事は昭和20年に資材不足で工事が中止された。それから4年後の工事再開までおかれることとなる。戦時中の建設ということで、ダム建設には捕虜を作業員に動員するばかりか、朝鮮人労働者の手によって建設されたという特異な歴史を持つ。昭和16年朝鮮人労働者約2000人、同17年米国人捕虜73人、同19年中国労働者 884人が従事したという。これら外国人労働者は、強制労働による栄養失調や病気で亡くなる人が多かったようだ。

 靖国問題をはじめ、戦争責任がたびたび問題になる。戦争の悲惨とは簡単に言うが、人がひとに行なった行為として二度と起きてはならないものであったこととして認識しなくてはならない。けして正当化してよいものでもないし、いったい何がそうさせたのかというところは、語り継がなくてはならない。「48年ぶりの告白、生々しい傷跡」にも書かれているが、2円50銭が日給という約束であったにもかかわらず、その報酬が支払われなかったという現実に対して、最低限の補償は当然のことであるあずだ。施工業者「熊谷組」という銘は、これを造った誇りとなるのか、あるいは不当労働でつかんだ誇りなのか、歴史は明らかでなくてはならない。

 資料とともに写真が何枚かある。おそらく平岡ダム建設当時のもので、まだ本体工事が始まる前のもののようだ。

 やはり平岡ダムで検索していると、「夢の弾丸道路」でも触れたが、廃線マニアのページにダム関連で廃止された鉄道の軌道跡を扱ったものがけっこうある。加えてダムマニアという人もいて、ダムばかり扱ったページが意外に多いことも知った。たった一つの指先の動きで、いとも簡単に関連記事が閲覧される現代の平和さと、かつての環境との落差も、そこで気がつく。この落差は発電以上に大きなエネルギーを覚える。


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辰野町の現場から

2006-09-13 08:11:34 | 自然から学ぶ
 おととい、辰野町小横川をを遡り集落の上の方まで仕事で入った。沢沿いの狭い空間の中央に小横川が流れ、その川沿いに道があって、家々がつらなる。この沢は国道153号線の小横川入口という信号機から入っていく沢で、下流域は辰野のマチ中ということもあって山間ではあるものの、マチからそれほど遠いところではない。この沢を遡るのは、昭和60年代以来かもしれない。

 「とき」のトップで紹介している辰野町の写真は、まさしくこの小横川を遡った昭和60年代に撮影したものである。その日は衆議院選挙か何かの選挙の日で、おばあさん二人が選挙の投票に向かうところだった。歩いているのは川沿いの道で、左側のガードレールの外に小横川が流れている。写真には写っていないが、右側の看板のさらに右に見事な双体道祖神があって、先日も盛んにコスモスが咲いていた。写真を撮ればよい被写体であったにちがいないが、カメラを持っていなかった上に、携帯のカメラが知らない間に壊れていて、撮ることができなかった。残念でならない。

 さて、集落を越えて道沿いを上っていくと、左側の山手が大崩落している場所がある。崩落したすぐ向こうに工場があるが、被災はなかったようだ。実は7月19日午後5時ころ、父親とともに川の様子を見に行った中学生の女の子が、この土砂崩落に巻き込まれて亡くなった場所である。集落内ならともかく、なぜこの場所へ来たのか、何を求めていたのかは推測できないが、偶然にその土砂崩落に巻き込まれてしまった。この川沿いは、ずいぶん荒れたようであちこちで護岸が決壊しているが、こうした崩壊の現場は他には見られなかった。本当に偶然だったとしかいいようがない。

 次に辰野町小野の楡沢川沿いに入った。枝垂栗へ向かう広い道沿いに車を止めると、道と道に挟まれた三角地帯の荒地を全面覆うようにして、アレチウリが繁茂していた。三方を道で囲まれた平地で、道に囲まれているからそこから外につるが伸びていくことはないが、異様な雰囲気である。「アレチウリ」でも触れたが、アレチウリの周辺をたくさんの蜂が飛んでいる。めったに車が通らないだけに、静寂の中に蜂の飛ぶ音が際立つ。アレチウリの合間にゲンノショウコが顔を出していたりするから、アレチウリが一面を覆うようになったのは最近のことなのだろう。

 余談であるが、別ブログで高山村で見た「ゲンノショウコ」に触れたが、実はそれ以降ずいぶんあちこちでゲンノショウコを見ている。「始めて見た」なんていうことをそのブログで書いたが、実は見ていたが記憶になかっただけなのかもしれない。ただ、白い花のものはよくみるが、赤っぽい花は見ない。北日本には白色が多いというから、南の方に行くと赤いものが多いのだろうか。
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アレチウリ

2006-09-12 08:03:56 | 自然から学ぶ
 「アレチウリ」を検索すると、長野県内での記事が多く沸いてくる。そして駆除行動が行なわれているのも長野県ばかりである。アレチウリが蔓延しているのは長野県ばかりなのか、そんな錯覚に陥る。よそではアレチウリをどうしているのだろう。

 先日生家の下流、与田切川と天竜川が合流する地点の対岸にある県道を走った。天竜川からは岩場が立ち上がり、県道の両側も岩場が剥き出しになっているような道路である。そんな状況だから県道とはいえ、道幅は狭い。にもかかわらず、休日ということもあってけっこう車が通る。駒ヶ根市吉瀬にある天竜川吉瀬ダムからの送水トンネルが、この道路に沿って中川村渡場にある南向発電所まで通じている。ちょうどこの合流点の対岸あたりにその送水トンネルの余水吐きなのだろうか、ゲートがある。その場所も道は狭い。その近くの道端にガードレールを被うように草が生えていた。すぐに何だかわかった。アレチウリである。北米原産の帰化植物で、ツル植物で1年生草本、青森県以南の日本各地で広がりつつあるという。

 このアレチウリの河川沿いの生息場所が長野県のホームページにある。なぜ河川沿いに集中しているのかについては、なかなか的を得た説明はされていない。天竜川の近在の一覧からその生育場所をあげると次のようになっていた。

 1.天竜川 飯島町 本郷地区飯沼橋右岸上下流
 2.天竜川 飯島町 田切中平地籍天王橋上下流河川敷(右岸)
 3.天竜川 南箕輪村 天竜橋から大清水川との合流点
 4.天竜川 中川村 飯沼橋~天竜橋

 わたしがアレチウリに遭遇した場所は、飯沼橋の上流にあたるから、1.や4.の近くである。正確に言えば、2.と4.の間にあたるだろうから、この一覧には掲載されていない場所である。「天竜川飯沼橋上流左岸」というのが正しいかもしれない。車から降りて、川の方をのぞくと、川沿いの方から上に向って伸びてきている。場所によってはガードレールが見えないくらいに覆い尽くしている。犬の散歩をしているおばさんがいて(こんな近くに集落も家もない場所を犬の散歩をしている人を見たのは初めてであった)、「それってアレチウリって言うんだよ、知っている?」と言うので、思わずうなづいてしまった。このあたりはアレチウリに覆われ尽くしていて困る、というようなことを口にした。駆除活動が報道されるが、こんな危険な場所は、なかなか手を出すこともできないだろう。アレチウリが木々を覆っている姿を見ると、覆われた木が可愛そうになるくらいで、実際そんなことが要因で枯れてしまうこともよくある。多様な植物が、覆われることでアレチウリに席巻されていくわけだ。

 このアレチウリの花が盛んに咲いている。そのアレチウリの花を巡ってさまざまな虫がやってきている。このごろ花に注目しているから、花にやってくる虫たちの姿を盛んに見ている。しかし、アレチウリほど多様な虫が集まる植物は、最近では見ていない。とくにたくさんやってくるのは蜂である。アカバチ、アシナガバチ、ミツバチなどたくさんやってきている。そして、チョウではベニシジミ、コミスジのほかセセリ系のチョウもやってきている。甲虫類もたくさんいる。写真は花にやってきている大型のアリである。

 アレチウリにすべて覆われているのかとよく見てみると、クズの葉がずいぶん混じっている。アレチウリが繁茂するまではクズの独壇場だったのだろうが、アレチウリにとって変わられようとしている。しかし、アレチウリが多様な生物の集まる場所であるということは意外な事実であった。
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夢の弾丸道路

2006-09-11 06:36:13 | 歴史から学ぶ
 高校時代にクラブの顧問から預かった資料がある。それは文化祭での発表テーマに沿って調査するにあたって貸してもらったものなのだが、そのまま返すこともなく、今もその資料はわたしの手元にある。その先生も10年以上前に亡くなっている。その資料の中に、何の計画だかよくわからないルート図があった。当時先生に聞いたことがあるのかもしれないが、記憶にはまったくなかった。10年に一度程度であるが、書棚を整理しているとその資料の存在に気がつき、そのたびに「何の計画だったんだろう」と考えながらも、再び書棚に返して埋まっていた。再びそのルート図に明かりがあたり、またまた「何なのだろう」と首をかしげたのだ。5万分の1の地理調査所(現国土地理院)の地図を貼り合せたところに、黒いペンと青の色鉛筆、朱の色鉛筆の3パターンの線が引かれている。トンネルらしきところは2本線で引かれ、そうでないところは1本線で引かれている。どう考えても鉄道か道路、あるいは送水管などのルートを計画したものだとわかる。5万分の1の「中津川」「時又」「赤石岳」「井川」の4枚が貼りあわせてある。

 この図をよく観察してみると、中津川あたりから始まったルートは、恵那山の北、神坂峠の下をトンネルで抜け、現在の昼神温泉あたりからルートがばらつき始める。ばらつくのだが、基本的には天竜峡あたりを通過し、旧南信濃村の木沢を経て、上河内岳と光岳の間を経て山梨県早川町に向っている。

 この図を見た際に、最初はかつて計画されていた国鉄中津川線のものではないかと思った。国鉄中津川線は、昭和41年12月工事実施計画が認めらたもので、飯田-中津川間36.7キロを単線電化でつなぐ計画だった。約56%がトンネル区間の路線といわれ、飯田、伊那中村、伊那山本、阿智、昼神、神坂、美濃落合、中津川という駅が予定されていた。昭和49年完成が目標だったと言うが、折からの国鉄民営化の嵐を前に、計画は中止された。昭和42年11月に飯田市山本の二ツ山トンネルの掘削工事が開始され、山本地区では線路の姿を見せていたが、そのまま今に痕跡を残している。そんなことをネットで調べていると、案外こうした廃止路線マニアの人がいることを知る。ちなみに、1973年1月14日、この中津川線神坂トンネルの掘削予定地の地盤調査で水抜きボーリング工事を行なっていた際に、温泉が噴出した。これが今ではよく知られている〝昼神温泉〟である。

 さて、そうはいっても中津川線の計画図なら、飯田までの路線が示されているはずなのに、どう考えても赤石山脈を越えている。どうも中津川線の計画図ではない。となれば、〝中央自動車道〟か・・・と思いめぐらされる。手元にある資料でそれを探ろうと、ルート上にある『阿智村誌』を調べてみた。今まで中央自動車道には何度もお世話になっているが、その背景をあらためて知ることとなる。同書の「中央自動車道西宮線」の項にこう記されている。

 「この建設(中央自動車道のこと)までの歴史をひもとけば、終戦直後静岡県沼津市の一会社社長であった田中清一が、日本列島を縦断し国土を復興させようという夢の弾丸道路を発表したことによるといわれている。閉鎖的な伊那谷を救うにはこの田中プランしかないと、以来伊那谷のすべての勢力がこの中央自動車道の実現に集中してきたのであった。(田中氏は昭和29年12月会地(現阿智村)公民館において中央道田中プランの講演をした)」


 この記事を見ると、当時は弾丸道路というように、東京と名古屋、あるいは大阪を直線で結ぶ道路であったに違いない。前述した地図の年代は、昭和27年から31年のものである。ちょうどそのころの地図なのだ。そして、この図とは別に、もう1枚、「第四案 精進中津川間縦断面図」という図があった。そこに「昭和29年9月23日調製」とある。さらに「財団法人 田中研究所」とあったのだ。「阿智村誌」にある田中清一氏の話と一致するわけだ。何回も開いてみてはしまっていた地図が、中央自動車道の計画案だったのだとわかった。

 わたしはこの地図と『阿智村誌』を見ているたけで、他の資料には目を通していないので、あくまで想像ではあるが、こう考えた。実は名古屋東京間の地図を広げて見るとわかるが、八王子から山梨に入った中央自動車道は、大月から河口湖まで富士吉田線が分岐している。この河口湖と中津川を結ぶと、まさしく天竜峡や、木沢を通るルートが想定される。昔から富士吉田線は富士山への観光客のために造られた道路なんだと思っていたが、実はこの精進中津川を結ぶための道路だったのではないだろうか。経済効果を考えて中央自動車道は甲府や諏訪へ迂回することになったが、もともとはまさしく弾丸ルートが想定されていたわけだ。

 精進中津川間の縦断図は、八王子からの距離78kmポストから、中津川の208.4kmポストまで130.4kmを示している。精進湖標高910mから富士川210mへ下り、易老嶽近くの1132.5mまで上り、伊那谷に入っている。その図によれば、現在の恵那山トンネルより長い易老嶽トンネル8.15kmが描かれている(図では易老嶽トンネルが最長だが、現実に造られた恵那山トンネルは8.489kmあるので図に描かれた易老嶽トンネルよりは長い)。

 この縦断図は手書きではなく、印刷されたものである。4案と書かれていることから、地図のどのルートにあたるだろうかと、経由地点を地図上で追って行くと、青色鉛筆で描かれているルートである。実はこの4案のルートの飯田市山本竹佐から天竜峡へ通じるラインは、現在建設されている三遠南信道の山本ジャンクションと天竜峡インターのルートとまったく同じである。写真はその縦断図の長野県と静岡県境のあたりのものである。実際の背景は紺色であるが見やすいようにモノクロに変換した。左側が東京方面、右側が名古屋方面てある。左端に大井川畑薙ダムが描かれ、真ん中左よりに県境ラインが引かれている。その上に長大トンネルの易老嶽トンネルが表示されている。右側へどんどん下っていき、北又渡、須沢と遠山川沿いに下り、遠山谷最下点の上島へ至る。最高点の1132.5mは、現在の国内高速道路最高点とされている、中央自動車道富士見町付近の1015mより100m以上高い。図を眺めているだけで夢の世界が広がる。

 夢の弾丸道路が現実味を帯びていたころが見える資料であった。


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クロツバメシジミ

2006-09-10 10:17:43 | 自然から学ぶ


 「道端のツメレンゲ」を紹介した。あれから1ヶ月近くたつことから、のぞいてみた。ツメレンゲはしだいに大きくなっている。ツメレンゲといえば、それを食草としているクロツバメシジミである。あたりにはアゲハチョウを始め大柄なチョウが飛んでいるが、目的はそんな大きなチョウではない。羽を広げても2センチ弱程度というシジミチョウである。護岸にへばりついたように伸びているツメレンゲのあたりをじっと眺めていると、ひらひらと飛んでいる小さなチョウの姿が見えた。期待を込めて足場の悪い護岸を上ってみる。尾に突起があることからツバメ系シジミとわかる。普通のツバメシジミかと思ったが、よく見ると斑点がはっきりしていて、羽の表面が黒い。クロツバメシジミであるとわかった。この近くではミヤマシジミも飛んでいるからけっこう貴重な種を同時に見ることができる。クロツバメシジミは、長野県のRDLにおいて留意種と、環境省レッドデータカテゴリでは準絶滅危惧(NT)に選定されている。

 1993年の自然環境保全基礎調査のチョウ分布図によれば、対馬、壱岐、大分、瀬戸内海の周辺県、長野県、山梨県などに分布はあるが、全国的には少ない。成虫は5~9月に年3回程度発生し、幼虫は前述のツメレンゲやイワレンゲなどを摂取し、成虫時にも食草であるツメレンゲ周辺から離れることが少なく、食草の葉の中に幼虫態で越冬するという。ということで、ツメレンゲと縁の切れないチョウであることがわかる。ツメレンゲあるところにクロツバメシジミいる、というところなのだろう。

 写真はちょうどツメレンゲにとまっているものである。すぐ端を車が、そしてダンプが通っているが、護岸に降りると涼しげにチョウは舞っている。ツメレンゲが花を咲かせるころにもう一度観察にやってこよう。

 撮影2006.9.9
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ハチミツ

2006-09-09 09:46:19 | 自然から学ぶ
 自宅での朝食。卓上にハチミツの瓶が置かれている。「どうしたの」と聞くとどこかでいただいたもののようだ。「豊丘村産純粋 はちみつ」と書かれたラベルを見ると、農協で販売しているはちみつである。蜜源の表示がされている。「アカシア、リンゴ、かき」とある。特定在来生物として批判を受けているアカシアであるが、ハチミツの生産者からクレームが出ているという報道も流れ、現在のハチミツ生産がアカシアに頼っていることは知っていたが、実際にラベルにその蜜源が表示されていて、身近な問題なんだということはわかった。

 長野市の県庁横を流れている裾花川は、源は旧鬼無里村である。大雨が降ると上部にある県営裾花ダムで洪水調整が行なわれているのだろうが、川いっぱいに水が流れる姿を何度か見ている。堤外地にある畑はその都度水につかっている。川岸には高くなった木々が林をつくっていて、恐らく洪水時には流れの妨げとなっている。そんな裾花川の県庁から下流域で、近ごろ河川内の除伐が行なわれていた。河川内に多く生えていた木は、やはりアカシアである。洪水時に根こそぎ流れて、下流域の構造物などに引っかかるなどの影響が指摘されていた。防災対策も兼ねた河川整備だったのだろう。整備後は緑が消え、河川内に土の色が見えている。緑色だったころにくらべれば、ずいぶん暑さを感じる。夏も終わりに近づいたいまだから、気にもとめないが、土が露になった姿もあまり良い印象ではない。どの時点で河川内整備をするのが良いか、一考を要する行為でもある。その河川整備において、すべての木を除伐したわけではない。一定間隔で残された木が残っている。もちろんアカシアではなく、ヤナギの木である。意図的にすべて切るのではなく残すように整備されたものなのだろう。ところがそんななかにもアカシアが時折残っている。どんな木が残されているかといえば、大きくなって日陰を作り、日除け的に人が集まるような木は、これも意図的に残したのだろう。

 長野市周辺の堤外地を見れば、どこもアカシアでいっぱいである。犀川の川中島側の河川敷内には「アカシヤの杜」という林がある。堤防道路からの入り口にそう表示されている。見事なまでに背丈が高くなったアカシアは、適度に間伐されていて、まさしく杜となっている。木々の下はマレットゴルフ場に整備されていて、住民の「憩いの場」という印象が強い。すでに日本に入ってきて長いつきあいをしてきたアカシアは、「人々ともにある」という印象は強い。

 さて、豊丘村のハチミツであるが、生産者は同村福島の方だ。福島といっても範囲は広いが山の方の集落である。蜜源とはいうが、蜜源であるとどういうように判断するのかは知らない。蜂の追っかけ調査でもするのだろうか、あるいは運んできた蜜を見てアカシアの蜜だとわかるのだろうか。いずれにしてもこれだけ蔓延してしまったアカシアを消すことは不可能であるし、不在地主に断って除伐するほど手はないし金もないし、そこまでしなくてはいけないのか、という優先性というものもある。養蜂家の人たちがクレームをつけるほどアカシアが姿を消すとはとても考えられないと思うのだが・・・。
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消えた村をもう一度⑧

2006-09-08 07:57:56 | 歴史から学ぶ
 今年の2月1日に福井市に編入合併した町村が美山町、清水町、越廼村の3町村である。このうち越前岬の北側にあった越廼(こしの)村は、福井県でもっとも人口の少ない村だった。合併前の2005年の国勢調査によれば、人口1629人とある。ついでに面積も15.35km2と、こちらも福井県内最小という。長野県にはこの程度の人口の村はたくさんあるが、福井では小さな村だったようである。福井県では、平成の合併で市町村数がかなり減少している。こういう自治体が少ない県をみていると、県の必要性が問われような気もする。となれば道州制も必然的なのか、と思えてくる。

 紹介するパンフレットは、昭和55年の1月に隣の越前町から送っていただいたパンフレットに紛れていたものである。越前といえばスイセンである。越前岬にスイセンが咲く場所があることは知っていたが、その場所が越前町ではなく、越廼村側であることは、あとで知った。越廼村の越前町境にある居倉というところが、その発祥地という。このパンフレットには、越前スイセンの伝説が書かれている。それによると、次のようだ。

 平安時代末、居倉浦に山本五郎左エ門という長者がいた。五郎左エ門には2人の息子がいて、その2人が居倉浦で遭難した娘をめぐって争うようになった。やがて2人は決闘することを決めたのだが、「ふたりの仲を悪くしたのはわたしが原因」と、娘は荒れ狂う海に身を投げてしまったという。翌年の春、刀上海岸に見たこともない美しい花が流れ着き、人々は美しかったあの娘の化身だろうと、その花を海岸の丘の上に植えた。

 以上が、越前スイセンの発祥だという。

 スイセンはもともと日本の在来のものではない。地中海地域の原産で、中国を経て渡来したものと考えられている。伝来ルートについては、中国からの渡来説とは別に、暖流による漂流説もあるが、定かではないという。我国の暖かい海岸地帯には野生スイセンが多くみられ、太平洋側では千葉房州、南伊豆、淡路島、四国の足摺岬付近、九州では長崎及び鹿児島県の島々に多く、日本海側では対馬暖流の影響を受ける山口県の北部から能登半島にかけての海岸地帯に多い。そのうち、越前海岸と、房州(千葉県)、淡路島(兵庫県)が三大産地といわれている。

 さて、このスイセン見たさに越前海岸を訪れたのは、平成2年ころである。ちょうどスイセンが咲いている時期に訪れはしたものの、冬場で海も荒れる時期ということで観光客は少なかったことを覚えている。スイセンを出荷する形で産業化してきてはいるが、なかなかそれだけでは人々を留めるところまでいたっていないのだろう。このパンフレットは、昭和50年ころに作られたものなのだろうが、この中で越廼村のことにも触れている。当時の人口は「2600人たらず・・・」と言っている。今年の合併時の人口が1600人余だから、パンフレット当時にくらべれば約1000人減少しているわけだ。

 隣接している越前町もなくなってしまったのかと見たら、こちらは健在である。 越廼村が合併した1年前の2月1日に、従来の越前町に織田町、朝日町、宮崎村の4町村が新たに合併して新越前町が誕生している。「越前」という名称はブランドとして生きているのだろう、4町村が対等合併しても〝越前〟という地域名は、他の町村の住民にも受け入れられたわけだ。ところが、この越前町の山側に、今は越前市なるものもできている。こちらは武生市と今立郡今立町が合併して誕生した。武生市でよいのに、わざわざ「越前」を冠したかったわけだ。しかし、同じ名前の市町が、それも隣接してあるというのも紛らわしいものだ。

 以上は「越前」の余談であったが、合併後の越廼村内の住居表示には、「越廼」という名称はつかない。今回の合併には、そんなことがよくある。かつての町村名がまったく消えてしまうというのも寂しい限りだ。合併時に作り出された地名は、さらに合併する際には消えてしまうということは覚悟しておかなくてはならないということだ。


 消えた村をもう一度⑦
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マツムシソウ

2006-09-07 08:12:17 | 自然から学ぶ
 自宅近くの山のため池を訪れた。けっこう奥なのだが、若者たちが3人ほど釣りをしていた。以前、妻が訪れた際にも釣りをしている若いカップルがいたというから、頻繁に釣り人が、それも若い人たちが来るようだ。道があるということは、どんなに山奥だろうが人を迎え入れることになる。むしろ山奥だからそれほど人が来るわけではない。しかしながら道があるから、目的さえあれば容易に行き着ける。そこが盲点といえば盲点だ。どうもこれだけ釣り人が訪れるということは、おそらくブラックバスかそれに類似した魚がいるに違いない。山奥だろうが、人の寄り付きやすいところとは、そんなよその影響を受けてしまうのだ。

 外来魚に限らず、よその人が寄り付きやすいところといえば、外来の植物もやってくる。果たして道が与える影響とはどれほどのものなのか。同僚が以前こんなことを口にした。それはわたしがこんなことを発言したからだった。「○○地区は道が狭いから行き違いもできなくて大変じゃないか」と言ったのだが、その返答はこうだった。「いいのいいの、道なんか広くならなくて。広くなるとよそ者がやってきて、騒々しくなる」と。言われてみればその通りで、あまりに道が狭ければ、まず大きな車はその雰囲気を察して入り込むことはない。どうしても進みたいのなら、車をおいて徒歩で進入する。そして、小さな車でもそのまま進入しても通過することができないとなれば引き返さずを得ないわけで、躊躇するわけだ。いっぽう道が広ければ、大型車はもちろん、普通車でもどんどん入ってきてしまうものだ。その地域だけでの生活道路であるならば、よそ者が入ってきて迷惑にならないためにも、道は狭い方が得策かもしれない。もちろん、観光農業も含めて、よそ者を受け入れることで生業を立てている人たちからしてみれば、視点は異なる。どちらが良いのかというところも、人によって違うのは当たり前だ。

 妻の実家の裏にもため池が二つあるが、一つ目のため池までは堤体の下まで車は入れる。しかしながら、行き止まりだから、妻の実家からは誰かが来ているとすぐにわかる。そして二つ目のため池となると、歩いて行かないと入れないということで、なかなかよそ者が寄り付きにくい。だからこそ、妻もその環境を大事にしたいという。自宅近くの山奥のため池によそ者がやってきていると、ちょっと違和感を覚えるように、やはり、顔を知らない人々が懐に入ってくるというのは、気分のよいものではないはずだ。


 さて、わたしはため池にそんな釣り人を見に行ったわけではない。妻がセンブリがあったというので花が咲いていないかと見に行ったのだが、わからなかった。土手の草が刈られていたが、中央あたりの頂に、マツムシソウが咲いていて、その株はしっかり残してあった。マツムシソウといえば、秋というイメージで、高原にこの花が咲き始めると秋の訪れを覚える。美ヶ原や霧が峰高原の花という印象もある。いずれにしても高原のイメージは強い。松虫が鳴くころが花の時期といわれるところからその名があるともいうが、松虫塚の辺りに多い草からそう呼ばれたという説もある。摂津国阿倍野の原を二人の若者が歩いていると、野から松虫の音が聞こえる。その美しさに惹かれて一人が野に分け入ったが、いつまで経っても帰って来ない。探しに行くと野に入った者はすでに冷たくなっていた。残された友人は、嘆き哀しみ遺体を塚に葬ったという。後日彼も後を追って自殺してしまい、同じ塚に葬られたという。その塚が松虫塚である。松虫のことを鈴虫だともいう。なぜかわからないが、わたしのイメージでは、鈴虫はお墓に似合う。もしかしたら、マツムシソウは、昔は墓にたくさん咲いていたのだろうか。なぜか似合うような気もする。以上わたしの勝手な想像である。
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ハマショイ

2006-09-06 08:10:31 | 民俗学
 雑誌『伊那』(伊那史学会)の最新号940号の口絵に、長倉隆行氏が「天竜川通船のハマショイ」を寄せている。長倉氏は八十二文化財団の雑誌『地域文化』の編集を担当されている。そんな編集の中で天竜川流域の調査をしていてハマショイをされた方に聞取りされたようだ。旧佐久間町中部に在住する99歳の女性から、ハマショイとして働いた際のことを聞いている。

 実はこのハマショイという言葉は、長野県の民俗関係の報告をみてもなかなか出てこない。今でこそ天竜川には佐久間ダムをはじめ、平岡や泰阜といったダムができてしまい、昔の通船について語る人も少ない。しかし、川を利用した物資の運搬は、かつては重要な地位を占めていたことは確かで、そんな暮らしから生まれた地域文化というものもあったに違いない。

 ハマショイについて長倉氏の記事から要約するとこうだ。船着場に着いた船の荷を背負って町なかの問屋まで届け、駄賃を稼ぐ。米やカマスに入れた肥料、あるいは節句の人形なども背負ったという。こうしたハマショイを女性がしたようで、女の小遣い稼ぎだったようである。この聞き取りをした女性は20代のころによく出たといい、ハマショイを専門にやっていた人が仕事の割り振りをしていたという。船着場から問屋まで運んで4銭か5銭ほどで、店屋や個人の小売まで背負うものを「つぼ荷」といって少し割が良かったようだ。問屋なら仲介だし、店なら直接渡しだから、その分良いのは当然かもしれないが、きっとそういう仕事はなかなかもらえなかったのだろう。船着場のことを「浜」といったことからハマショイになったという。

 さて、『長野県史 民俗編』から荷運び業の項を参照してみよう。南信地方資料編からハマショイと同じような駄賃稼ぎの事例をあげてみる。

 1.ショイコサと呼ばれて大草から大鹿村に食料を運搬する人がいた。ダチソトリとも呼んだ。(M35-大草)
 2.ショイコサと呼ばれる人がいた。(柳平、吉岡、浅野、和合、売木、十原)
 3.ショイコ、ショイコサ、モチコなどと呼ばれる人がいて帆かけ船から酒などを運んだ。また、平岡から太田の間の荷運びをしたが、アシセンは先払いであった。(坂部)
 4.ショイコヤサと呼ばれる人がいた。(S20-伊那小沢)

 というようなもので、直接ハマショイに近いものとしては、3.に紹介した帆掛け舟からものを運んだ人たちだろうか。単に荷運び業とはいっても、山にモノを運ぶ人もいるが、ハマショイのように川から荷を必要としている問屋や店へ運ぶ人たちとでは、その重さが異なるのだろう。船着場に荷が届いても、そこから問屋まで運ぶ人たちが、別にいたということが新鮮である。ようは、かつての暮らしでは、オールラウンドにすべてを請け負う業はあまりなかったのだろう。持ちやは持ちやというように、それぞれ専門に働く人たちが分化していた。ようは小遣い稼ぎ程度でも、生活の足しになるように人々の暮らしは複雑にまんべんなく銭がまわっていたようにも思う。ハマショイに限らず、こうした狭い範囲の運搬業、あるいは細かい部分の作業を請け負う人たちがたくさんいたことを知る。

 天竜川を通じた交易がなくなるのは、ダムにも起因するが、鉄道の開通が大きい。鉄道が開通すると、その鉄道を利用して商いの荷を運ぶ、いわゆる行商の女性も下流から伊那の谷にやってきたようだ。そんな女性を扱ったテレビ番組を以前見た覚えもある。そうした商いも、今ではなくなっているのかもしれない。時代ごとに人々が知恵を使って稼いでいたことに、あらためて教えられるものがある。

 なお、『地域文化』のページにハマショイの記事が掲載されている。参考までに。
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時代は再び

2006-09-05 08:10:35 | ひとから学ぶ
 小泉政権もまもなく幕を閉じる。いや、すでに閉じているのかもしれない。田中康夫県政が終わることがわかった途端に、重要課題であった浅川ダムや高校再編という課題は、いきなり次期県政へ決着は先送りされた。一刻を争うような重要課題であっても、政権が変わるとなればこんなものなのだ。同じような経験を、異動の際の引継ぎに垣間見ることがある。人によっては異動が決まったと同時に、自らの仕事を放り出して、次期担当者に任してしまう。周りでは必死に年度末の処理に明け暮れているというのに、既に心は異動先に、あるいは挨拶まわりなどという生産性のないことに精を出す。どこの世界も似たかよったかである。同様に国政も小泉が辞める現実がわかり、次期政権は誰になるのだろう、というころから既に虚しさが漂っていた。これも同じことなのだが、会社の先行きがないといって希望退職を募った際に、大勢の希望者があった年があった。もちろん高齢の方々に手を上げる人が多かったから、会社の要職の方たちもいた。わたしの部署長も当時手を上げたのだが、まだ半年先まで彼らはこの会社で働くという段階でだ(9月末申し込みだったため)。そんな要職についている人たちが、すでにたくさん辞めるとわかっているのなら、その時点で次年度以降の体制のために、管理職を交代させるくらいの行動をとればよいのに、そんなことを言う者など1人もいなかった。それからの半年は、虚しいものだった。

 さて、次期首相といわれる安部官房長官。候補者3人の言葉を聞いても、阿部氏の言葉はなかなか違和感が多い。にもかかわらず政治家も国民も、この人をおいて他に首相はいない、といわれるほどの人気である。いったいこれは何なのだろう。ボッケニャンドリ家のブログにもあったが、政策ではなくルックスで首相が決まるのなら、いっそみんな整形をして同じ顔にしたらどうか、という案があった。冗談にしろ、世の中が人ではなく、カリスマ性とか、格好で人を選ぶようになってしまってまたまた虚しいばかりだ。能力低下で、その程度でしかモノを判断できなくなったのか、と思ってしまう。

 友人は最近盛んに「夏の終わり終戦の終わり」といって、時代が変わることを示唆している。教育基本法や防衛庁昇格を最優先にしていくと言っている次期首相。小泉もなかなかだったが、これは大変な自民党が始まる。次期首相の周りにいる人たちをみていると、どうみても戦争再来を思わせる人たちだ。公明党はそれでも何も言わない。おそらくこの路線にはそぐわない自民党議員も多いのだろうに、この流れは何なのか。知人のブログに「醜い面は伝えられず、思い出はいつしか美しくなってしまう」という言葉がある。これもまた例えだが、良い思い出より悪い思い出をよく覚えている。悪いと認識しているうちは「悪い思い出」なのだろうが、上昇気運になると、悪いものが「良い思い出」になってしまうことがある。語り口というのはそんなものだ。どんなに小さくても、誇大していく、そんなときにも同じような経験をする。人の気持ちとしては理解はできるのだが、基本にしっかりとした知識を持ち合わせていればよいが、風潮に流されたとしたら、どうだろう。今の日本はそんな流れを持っている。どんなに報道番組が、国政を批判しようと、風向きは変わらないほど、人々は強風に煽られている。

 ぜひ参考に読んでいただきたい。
 「戦後の終わりと戦前の始まり
 「夏の驕り
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本郷バイパス

2006-09-04 08:14:58 | 歴史から学ぶ


 昭和45年から国道153号の下伊那郡平谷村から上伊那郡飯島町の与田切川橋までの間、66キロの整備が5カ年計画で進められた。現在の国道153号の同区間の道路は、その際に整備されたもので、それまでは国道153号というものがないに等しいほどの道で、一時は現在の県道飯島飯田線が国道153号と呼ばれたこともあった。この整備計画の最北端に位置するのが与田切川の区間で、この写真の区間である。写真はおそらく昭和49年の冬に撮ったもので、まだバイパスは供用されていない。できて間もないころのものである。自ら撮影したものなのに正確には記憶していない。実はこの道路の周辺農地は、このあとにほ場整備が行なわれ、形を変えている。ほ場整備が行なわれたのは、昭和50年というから、このあと1年ほどの間に姿を変えることになる。だから国道バイパスができていて、ほ場整備がされていない間の珍しい写真なのかもしれない。

 道路の手前側が飯田方面、南に向う道で、向こう側は伊那市方面に向うことになる。「与田切川の変化」でも触れたが、川の変化は著しく、今や川の両岸にニセアカシアなどの木々が生え、川の姿がまわりからよく見えなくなっている。この写真のバイパスが左上に向ってまっすぐ進んでいったあたりの真ん中あたりに横に白く見えているものがあるが、これは与田切川の河原である。おそらく左岸側の護岸の白さが映っている。その白い帯が真ん中あたりまで来ると木に遮られて見えなくなるが、黒々している木々は松の林で、現在は切られてしまってない。右下に下ってきてそのあたりにも黒々した木々が見えるが、それもまた松林で、現在も若干残っているが、だいぶ切られた。木々がなくなったということは河原がよく見えるはずなのだが、今は前述したように、河川内の木々が生えて、それほどよくは見えない。これから3年ほどしたころ、白い帯が松林で遮られるあたりの川向こうにモーテルが建設され、一時はこの道を手前から走っていくと、川向こうのネオンが激しく目立っていて、モーテルがあることがすぐにわかったが、今は河川内の木々に遮られて目立たなくなった。

 ちなみに「与田切川の変化」で紹介した写真の左側につながる崖が、この写真の右手真ん中あたりに見える崖である。前段の写真では崖がいっきに上段の平らまでつながっているが、ここの崖は中段の河岸段丘でとまっているため、前段のものよりは崖の高さも低い。だからこそ、子どもながらにこの崖をよじ登ることができたのだ。

 なお、正面の山々は木曽駒ケ岳のあたりで、中央にちょっと尖った頂が見えるが、これが宝剣岳である。川の上段、白い帯の上あたりに見えているのが飯島町のマチの南端にあたる親町地籍である。「与田切川の変化」でも触れたが、ちょうどこの写真を撮影した場所のすぐ東側あたりからこの川を北へ向って橋がかかり、新たなる伊南バイパスという道ができる予定である。その道路計画というものも戦後から練られていたというから念願の道路なのかもしれない。この写真の道は、この谷を迂回するために、道路は西へ向きを変えるである。当時としてはこれが精一杯(?)だったのだろうか。あるいは整備計画が与田切川橋までということだったことからも、はなからこの川を渡るのは迂回にしよう、というものだったのかもしれない。
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伊那路の旅「飯田」

2006-09-03 13:38:13 | 歴史から学ぶ
 「消えた村をもう一度」や「小海線の旅」など古いパンフレットであちこちを紹介している。ここでまたひとつ、「伊那路の旅「飯田」」を紹介する。他のパンフレット同様、昭和50年代のパンフレットで、正確な年代はわからない。わたしが高校のころのものだろうから昭和50年代に入ったころのもので、中央自動車道が開通して数年たったころのものと思う。表紙にある写真は、現在飯田市松尾久井の民家の門として移築されている門で、旧飯田城二の丸入り口にあった八間門といわれる門である。明治4年に移築されたものという。旧飯田城の建築物は明治維新後にほとんどが取り壊された。その中で現存しているものは四棟のみといわれ、そのひとつがこの門である。ほかに長野県の出先機関にあたる、飯田合同庁舎の脇にある赤門がよく知られている。八間門とは門の幅が八間であることに由来するが、移築された門は五間である。移築の際に小さくされたのか、それとももともと八間あったのかは定かではない。現存する飯田城の遺構としてはもっとも古いもので、文禄年間に建築されたものという。

 実はこのパンフレットでは表紙になっている八間門ではあるが、これが飯田市松尾にあるとか、旧飯田城の遺構の八間門であるということは、パンフレットのどこを見ても書かれていない。かろうじて、「みどころガイド・郊外」というページの「鳩ケ嶺八幡宮」の項に「この近くには飯田城の八間門を移した木下家の門、さらには本棟造りの森本家がある」と触れているが、表紙の写真との関連は書かれていない。同じ見開きのページに飯田市郊外のイラストマップがあるが、そのマップにも鳩ケ嶺八幡は表示されているが八間門は表示されていない。表紙の写真に使っているくらいなのだから、キャプションはもちろん、位置図くらいは記載してほしかったものである。

 A5版で32ページ立てのもので、今までにも紹介した「小海線の旅」などと同様立派な冊子である。表紙の目次には「小京都・飯田をたずねて」「飯田の歴史」「飯田・なつかしき人々」「手づくり」「みどころガイド」「交通ご案内・おみやげと味」「飯田の祭りと行事」とある。交通案内にもあるのだが、「中央自動車道で名古屋から90分」と恵那山トンネルの開通を写真入で紹介している。当時としては世界第2位の長大トンネルだった。

 表紙の八間門について紹介されていないと述べたが、実はパンフレットの中に使われている写真に対してのコメントは、八間門同様に少ない、あるいはないものがある。「小京都・飯田をたずねて」の最後に殿岡双体道祖神の写真が一面に紹介されているが、ただ「殿岡双体道祖神」とあるだけでほかには何も説明はない。八間門同様にイラストマップにも記載されていないから、どこにあるかもよそ者には何もわからない。イメージとしてつかんで欲しい程度のものて、これをもとに訪れるというには心もとないものなのだ。

 そうしたパンフレットの不親切さはともかく、パンフレットをみるかぎり飯田というところには多様な、また観光資源が多いことに気がつく。にもかかわらず、当時としては観光長野の範疇ではとても肩身の狭いもので、信州を特集したパンフレットに、伊那谷はもちろん、飯田について割かれるページは極端に少なかった。その印象はわたしのなかでは今でも変わらない。

 さて、殿岡の道祖神は当時何度か訪れた。飯田インターからすぐ近くにある平澤家の庭にある。「お役者双体道祖神」などといわれているほど像容は見事なものだ。宗十郎頭巾をかぶった男神、お高祖頭巾をかぶった女神、そんな姿からそう呼ばれるようになった。写真は昭和61年3月21日に撮影したものである。当時の平澤家には門扉がなかったが、今は門扉が設置されていて、お願いしないと見ることはできない。参考に『モノクロの彩り』に飯田の道祖神を紹介している。

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村井長野県知事の始まり

2006-09-02 16:28:19 | ひとから学ぶ
 昨日は、村井長野県知事の初日であった。おとといは田中長野県知事の最後の日。知事が変わるということは体制が変わるということでは大きな転換期である。田中新知事誕生の際にも大きな期待があったが、現実の政策が打ち出されるほどに、これほど変わるものなのか、といことをまさまざと見せられてきた。その現実をみんな知っているから、違った方針を打ち出している村井新体制下で、またいろいろ変わっていくと思うのは普通なのだろう。「知事が変わる」という現実がそれほど大きなものなのだということも、いってみれば田中康夫が教えてくれたのだ。その転換という現実が、選挙の結果から生み出される、その選択権を与えられているわたしたちは、それぞれに選挙の重さを認識しなくてはならない。「誰がやっても変わらないから」とはよく言うが、それぞれに「何」が変わることで「変わる」の判断なのかは違う。安易に使う言葉であり、また前向きでない言葉の象徴でもある言葉だが、実は長野県はそんな「変わる」ことの選択を田中康夫知事就任以来体感してきたわけだ。田中体制がどうあれ、それを体感させてくれたことには感謝をしなくてはならないのだろう。

 田中長野県知事退任の日に、見送る県庁職員はそれほど多くなかったという。最終日にガラス張り知事室を解放するなど、田中康夫らしさも垣間見えたわけだが、県庁内においての田中知事とは何だったのか、県民にはよくは見えなかった結果だろう。県職員、とくに県庁職員と融合できていなかったことは、ひとつの失策だったのかもしれない。近くに寄ればよるほどに、好き嫌いのはっきりする人物だったのかもしれない。だからこそ、泰阜村長が言うように、悪い面を差し引いても評価できるというくらいの大きな心がないと支えられなかったのかもしれない。公共性を重視する公務員に、そういう大きな心を持って社長を支えろと期待するのも難しいだろう。やはり、県知事という立場で活躍するには土俵が小さすぎた、ということではないだろうか。もう少し違う場面で活躍の場があるはずだ。

 そう評価したいのだが、任期切れの委員の後任に田中康夫の息のかかった人たちをこの時期にわざわざ任命していたり、今後も「長野県から」というような印象の言葉があったりして、もっと割り切って国政に行けばよいのに、と田中知事時代を引きずっているようで残念だ。

 そのいっぽうで村井新知事は、知事の退職手当を受け取らないと述べ、田中前知事に支給される手当てに対して批判するような言葉を就任と同時に発言している。もともと田中前知事が退職手当を引き下げようとしていたが、県会を通らずにそのままとなっていた。けして退職手当が悪いわけではない。知事として働いた以上は、その報酬として手当てを受け取るのは当たり前である。それをこと田中前知事が受け取る額だけがクローズアップされて、それに対抗したように「受け取らない」を発声するのも意図的で、聞いている側は「違うことを言えよ」と思ったりする。知事選の間に見せていた村井仁という人の顔と、最近テレビでコメントしている村井仁という新知事の顔はちょっと違う、そんなことを思うのはわたしだけではないだろう。もちろん、知事になることが決まれば、顔つきが変わってくるのも当たり前であるとは思うのだが、不安も多い。
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与田切川の変化

2006-09-01 08:20:32 | 自然から学ぶ


 先ごろ「手の届かない川」について書いた。わたしが生まれ育った家のすぐ近くを流れる川は、ずいぶんと様子を変えてしまって、とても川に親しむ、あるいは川で遊ぶという感覚ではなくなってしまったことを残念がったわけだ。子どものころ撮影した川の写真があるはずだと思い、探し出してみた。それがこのモノクロ写真である。先ごろ紹介した頭首工から撮影した写真とみくらべてみると、その違いが歴然としている。わたしの記憶では、先ごろ撮った写真も、ここで紹介しているモノクロの写真も、ほぼ撮影した場所は同じである。モノクロの方が若干下流側かもしれないが、違っていても100メートル以内である。最近の写真の方は、右側が藪になっているため、モノクロより川よりに寄っている。だからモノクロの方が川が広く感じるのだが、河川内を走っている道路の川よりで撮ったか堤内地よりで撮ったかの違いぐらいである。モノクロの方は冬に、最近のものは夏に撮っているから、木々の多少に違いがあるのは仕方ないが、その条件を差し引いたとしても、今の川には木がたくさん生えていることがよくわかる。

 川の向こう側の河岸段丘の高さは50メートルを越える。この段丘の上は水田地帯である。子どものころはこんな崖だったから、よく崩れる姿を目にしたり、音を聞いたものだ。どんどん上の平がなくなってしまうのではないか、そんな印象であったが、今では崖の姿がよく見えない。この上段は飯島町鳥居原という地籍で、広大な水田地帯が展開している。地層がよく見えるということで、わたしにとってはこの崖が毎日の風景でもあるし、その地層に興味を持っていた。天竜川が作り出したもので天竜礫層という。この崖が右手の方で川の方に下がっていっているが、この先に天竜川との合流点がある。下がり始める手前に堀のように木々が黒々崖の方に落ちているが、この突端にトヤゴ城という山城が戦国時代以前にはあった。崖をよじ登るのはできないが、合流点からこの城跡を登って上段に登ったことは何度もあった。写真には写っていないが、この崖の左側手前では、崖が二段になっていて、崖が凸凹していたため、そこはよじ登ることができた。

 「手の届かない川」でも述べたように、モノクロの写真を見る限り、川は河川内道路とさほど差がなく、川幅もずいぶん広く見える。この写真は昭和47年ころのものだが、さらに以前は、写真の真ん中あたりに中洲があったはずだ。そんな中州にヤナギの木があって、カブトムシやクワガタがたくさんいたものだ。きっとこの写真を撮影した少し前に大きな洪水があったのだと思う。河川内道路の端に三角錐状の木を組んだものが見える。昔は消防団が水防訓練をすると、よくこの牛枠を作ったものだ。今でも河川工事などで水脈筋を追う際に、こんな形のものが作られていたりする。

 さらに河川内の道路は、わたしが小さなころにはなかった。この下流に砕石プラントができてからこの道が作られたのだ。堤内地の町道は狭く、またダンプが通っては住民にも迷惑だということで、河川内にプラントまでの道が作られたようだ。この道の下にかつての護岸があって、そんな護岸の法尻から清水が湧き出ているところが何箇所もあったが、今では湧水が出ていたといってもとても信じられるものではない。

 ちなみに、現在駒ヶ根市から飯島町まで国道153号の伊南バイパスが建設されている。いつ完成するかは知らないが、ちょうど写真の崖の真ん中あたりにそのバイパスが上の平からやってきて、この川を跳び越すという。おそらく300メートル以上の橋が架かる。モノクロの時代から考えればビックリである。また、正面にそびえたつ山は、今までにも何度か紹介しいる陣場形山である。山の上からの写真と、今回の下からの写真を見ながら、崖の上、崖の下を思い浮かべてみて欲しい。立体感が出てくると思う。

参照
 飯島町のこと
 陣場形山
 陣場形山②
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