Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

見ず知らずの会葬者

2006-09-30 09:50:25 | 民俗学
 同じ部署の同僚の父が亡くなったといって、葬儀があった。ちょっと前なら会社関係の会葬者が多いとあって、受付なり駐車場整理なり人手が必要で、同じ部署のものが借り出されるということはよくあった。それでも仕事を空けるということもなく、部署から必要な人数が手となって加わったのがわたしの印象である。

 しかし、葬儀も大きく変化してきた。自宅でする葬儀などというものは、会社に入ってから経験していないが、公民館とか寺での葬儀は何回か経験した。必ずしも立地が良くなければ、やはり人手が必要だった。しかし、今は大方が葬儀場だから立地も良いし、葬儀場がいろいろしてくれるから人手はいらない。だから会社の人手もそれほど必要とはされない。人減らしで部署の人数が減り、中には全員で関わらなければならない部署もあるのだろうが、わが部署は人手が多い。葬儀があればそうした関わり方指示してくれるものなのだが、最近はなかなかそんなこともない。しかし、みんな会葬に行く。今までいた部署で、全員で葬儀に関わったことなどただの一度もない。前にも述べたような受付や駐車場係が必要なケースではない。そして今回の葬儀にも、特別用事がなければほぼ全員会葬した。どうもわたしには違和感がある。だからわたしは留守番をしていた。

 昔の田舎のイメージでは告別式なんていうものはなかった。葬儀は葬儀なのだ。会社勤めの人も多くはなかったから、会葬者といえば、親類縁者、地縁関係者ぐらいだった。しかしながら、親兄弟が多かったから、それだけでも賑やかなものだった。しかし、今はそうした関係者が少なくなったし、地域とのかかわりも少なくなった。いや、個人によって差があるといった方が正しいだろうか。だから、寂しい葬儀は本当に寂しいものだ。その分、会社の関係者がやってくる。以前知人が、会社の同僚の父親が亡くなったからといって香典を出すなんて言うのは納得できない、などといったことがあった。みんなが出すから出さざるを得ない。一度も会ったこともないのに、義理をしなくてはならないのか、そういう観点なのだ。それまで自分もみんなと同じように香典を出し、それが当たり前のように思っていたが、冷静に考えてみればおかしな話である。もっといえば、故人もまったく知らない人が葬儀に来てくれたとして喜ぶのだろうか。最後だからこそ、身内や親しい人たちによって送って欲しいものだ。

 もともと葬儀なんか身内だけでしかやらない、と遺言を書こうと話している我が家だから、義理を広めるつもりもない。加えていつ今かかわっている人たちと縁が切れてしまうかもわからない。無理に義理をして、あとあと相手も困惑するような関係を作ってもいけない。今は今なのだから、会葬したからといって義理を果たしたなんて言う間隔を当たり前のように持ちたくはない。

 さてこうした会葬者のあり方のようなものは、民俗関係の報告書には出てこない。『葬儀と墓の現在』(国立歴史民俗博物館編)に、関沢まゆみ氏が「葬送儀礼の変化」を書いている。血縁的関係者=A、地縁的関係者=B、無縁的関係者=C(葬儀の職能者)という三者の葬儀への関わり方を述べていて、湯灌にしても葬具作りにしてもCのかかわりが高まっているという。葬儀を商売とするのなら、当たり前の現象だろうが、亡くなる方も寂しい限りだ。他人、それも銭で動いている人に世話をしてもらわなければあの世にいけないわけだ。そんな考えが古いといってしまえばそのとおりで、介護されるのが他人が当たり前の時代なんだからなるべくしてなったことなのだろう。だからこそ、わたしのように人の世話になりたくない変人は、死に方も考えておかなくてはならない。
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