Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

与田切川の壁

2006-09-15 08:15:36 | 自然から学ぶ


 天竜川上流河川事務所のホームページに「空から見た天竜川」というものがあり、上空から天竜川周辺を撮影した写真が公開されている。今までにも何度も触れている与田切川合流点を中心にした写真がある。その写真をまず見てみる。中央あたりから左上にさかのぼっている川が与田切川である。真ん中左手あたりに広めの道が若干カーブしながら上に向っているが、これが国道153号で「本郷バイパス」で紹介した場所である。川左が飯島町本郷で、右側が飯島町飯島。真ん中上部の住宅密集地が飯島のマチにあたる。そこから右下に広がる水田地帯が鳥居原地籍となる。「手の届かない川」や「与田切川の変化」で触れた崖の上になる。この写真がいつ撮影したかはっきりしないが、そう昔のものではないのだろう。川の右手の崖下にいかにも土砂が落ちた上に緑が広がっているようにも見える場所が、「与田切川の変化」で紹介した写真とはずいぶん違うことに気がつく。崖そのものも上の方は土の色が見えているが、下の方は緑で覆い尽くされている。

 ここで今回紹介する写真と見比べてみる。昭和59年ころの写真で、「与田切川の変化」で触れた写真と同じころである。撮影したのは、上空から撮影されたものの真ん中左手の国道が段丘を掘り割るあたりの段丘上である。ここから当時の崖は上から下まですべて土が剥き出しになっていることがわかるだろう。約30年でここまで変化するとなると、昭和初期とか明治のころはどうだったのだろうと思ったりする。ちょうど崖の真ん中あたりに少し木が張り付いているが、現在はこのあたりまで緑で全面覆われてしまっている。写真真ん中あたりの崖上のこんもりした場所がトヤゴ城と言われる城跡である。その左手木々が崖に垂れ下がるように覆っている場所は「空堀」となる。この空堀は天竜川の方向にもあって、人為的に造られたものと言われる。その堀の左手の林は二郭でその左手も作られた堀なのだろう。このトヤゴ城については詳しいことが解っていないようだ。いずれにしても戦国時代のものである。当時もこれほどの見事な崖になっていたのか、30年でもだいぶ変化しているところをみるとどうだったのだろう。もうひとつこの30年での大きな変化は、城跡あたりの木々の変化である。現在はこの跡に生えている松は、ほとんど茶色と化している。いわゆる「松枯れ」というやつである。無残な姿となっている。

 写真の川手前の水田地帯は、戦後になってから開田されたものだろう。昭和50年にほ場整備された際には、この開田された区域は整備済みということではずされたはずだ。真ん中左手の家が一軒あるあたりから左手はほ場整備されて変わっている。加えて一軒やの左手のあたりの林は、現在はなくなっていて、上空からの写真でもわかるように、ここにグランドが整備されている。

 城跡から右手に向って段丘は天竜川へ落ちていっているが、その向こうの山裾の傾斜地に畑の姿が見える。中川村飯沼地籍で、現在のこのあたりの様子をみると、これほど畑らしい姿はない。この畑の下に主要地方道伊那生田飯田線が走っている。天竜川とこの畑との間は急峻な崖となっていて、その間に狭い県道がある。昭和初年に現在の中部電力南向発電所が作られる際、駒ヶ根市吉瀬から中川村葛島まで送水管の隧道を掘った。この際の作業用の道路として造られた道路で、現在も昔のままの幅の場所が多い。城跡の向こう側の山肌は、飯島町日曽利というところで、もとは旧南向村の地籍だった。その大方は現在の中川村となっているのだが、この日曽利は分離して飯島町分となった。日曽利と飯沼を結ぶ道路は「ヨケ」といわれ、牛馬が通るには難所だったようである。ちなみに「アレチウリ」で触れた場所は、その県道である。

 さて、今までにも何回か触れたが、この見事な崖にまっすぐ向って国道バイパスが予定されている。この写真のイメージでは「本当に・・・」と思うが、緑に覆われ始めた崖を見ると、それほど違和感はないかもしれない。
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