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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

平岡ダムから

2006-09-14 08:10:39 | 歴史から学ぶ
 「夢の弾丸道路」に紹介した資料とともに、平岡ダムの設計図が1枚まぎれている。「GENERAL DESIGN OF HIRAOKA PROJECT」と表記された図には、ダム周辺の平面図とダム本体の平面、および正面の図、断面図が描かれている。1/5000の平面図には国鉄飯田線が表示されていて、満島駅が描かれている。現在の平岡駅のことである。ウィキペディアによれば、堤高62.5m、 堤頂長258.0mという。図面に表示されている数字を見てみよう。堤の最低部の床の高さは250.00m、堤頂の高さは349.50mとある。したがって打設されたコンクリート部の高さは65.5mということになる。幅9mの窓が16箇所あり、正面図からみると、12のブロックでコンクリートが打設されている。堤頂の長さは、258.555mとある。ダム直上にある圧力トンネルは、直径6.8mあり、2本開けられ、下流の松島まで700mほど導水されている。図には1951.1.22と書かれている。昭和26年のことである。この年に平岡ダムは完成している。

 実はこのダムは戦時中に建設が始まっている。昭和13年に始まった工事は昭和20年に資材不足で工事が中止された。それから4年後の工事再開までおかれることとなる。戦時中の建設ということで、ダム建設には捕虜を作業員に動員するばかりか、朝鮮人労働者の手によって建設されたという特異な歴史を持つ。昭和16年朝鮮人労働者約2000人、同17年米国人捕虜73人、同19年中国労働者 884人が従事したという。これら外国人労働者は、強制労働による栄養失調や病気で亡くなる人が多かったようだ。

 靖国問題をはじめ、戦争責任がたびたび問題になる。戦争の悲惨とは簡単に言うが、人がひとに行なった行為として二度と起きてはならないものであったこととして認識しなくてはならない。けして正当化してよいものでもないし、いったい何がそうさせたのかというところは、語り継がなくてはならない。「48年ぶりの告白、生々しい傷跡」にも書かれているが、2円50銭が日給という約束であったにもかかわらず、その報酬が支払われなかったという現実に対して、最低限の補償は当然のことであるあずだ。施工業者「熊谷組」という銘は、これを造った誇りとなるのか、あるいは不当労働でつかんだ誇りなのか、歴史は明らかでなくてはならない。

 資料とともに写真が何枚かある。おそらく平岡ダム建設当時のもので、まだ本体工事が始まる前のもののようだ。

 やはり平岡ダムで検索していると、「夢の弾丸道路」でも触れたが、廃線マニアのページにダム関連で廃止された鉄道の軌道跡を扱ったものがけっこうある。加えてダムマニアという人もいて、ダムばかり扱ったページが意外に多いことも知った。たった一つの指先の動きで、いとも簡単に関連記事が閲覧される現代の平和さと、かつての環境との落差も、そこで気がつく。この落差は発電以上に大きなエネルギーを覚える。


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