Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

夢の弾丸道路

2006-09-11 06:36:13 | 歴史から学ぶ
 高校時代にクラブの顧問から預かった資料がある。それは文化祭での発表テーマに沿って調査するにあたって貸してもらったものなのだが、そのまま返すこともなく、今もその資料はわたしの手元にある。その先生も10年以上前に亡くなっている。その資料の中に、何の計画だかよくわからないルート図があった。当時先生に聞いたことがあるのかもしれないが、記憶にはまったくなかった。10年に一度程度であるが、書棚を整理しているとその資料の存在に気がつき、そのたびに「何の計画だったんだろう」と考えながらも、再び書棚に返して埋まっていた。再びそのルート図に明かりがあたり、またまた「何なのだろう」と首をかしげたのだ。5万分の1の地理調査所(現国土地理院)の地図を貼り合せたところに、黒いペンと青の色鉛筆、朱の色鉛筆の3パターンの線が引かれている。トンネルらしきところは2本線で引かれ、そうでないところは1本線で引かれている。どう考えても鉄道か道路、あるいは送水管などのルートを計画したものだとわかる。5万分の1の「中津川」「時又」「赤石岳」「井川」の4枚が貼りあわせてある。

 この図をよく観察してみると、中津川あたりから始まったルートは、恵那山の北、神坂峠の下をトンネルで抜け、現在の昼神温泉あたりからルートがばらつき始める。ばらつくのだが、基本的には天竜峡あたりを通過し、旧南信濃村の木沢を経て、上河内岳と光岳の間を経て山梨県早川町に向っている。

 この図を見た際に、最初はかつて計画されていた国鉄中津川線のものではないかと思った。国鉄中津川線は、昭和41年12月工事実施計画が認めらたもので、飯田-中津川間36.7キロを単線電化でつなぐ計画だった。約56%がトンネル区間の路線といわれ、飯田、伊那中村、伊那山本、阿智、昼神、神坂、美濃落合、中津川という駅が予定されていた。昭和49年完成が目標だったと言うが、折からの国鉄民営化の嵐を前に、計画は中止された。昭和42年11月に飯田市山本の二ツ山トンネルの掘削工事が開始され、山本地区では線路の姿を見せていたが、そのまま今に痕跡を残している。そんなことをネットで調べていると、案外こうした廃止路線マニアの人がいることを知る。ちなみに、1973年1月14日、この中津川線神坂トンネルの掘削予定地の地盤調査で水抜きボーリング工事を行なっていた際に、温泉が噴出した。これが今ではよく知られている〝昼神温泉〟である。

 さて、そうはいっても中津川線の計画図なら、飯田までの路線が示されているはずなのに、どう考えても赤石山脈を越えている。どうも中津川線の計画図ではない。となれば、〝中央自動車道〟か・・・と思いめぐらされる。手元にある資料でそれを探ろうと、ルート上にある『阿智村誌』を調べてみた。今まで中央自動車道には何度もお世話になっているが、その背景をあらためて知ることとなる。同書の「中央自動車道西宮線」の項にこう記されている。

 「この建設(中央自動車道のこと)までの歴史をひもとけば、終戦直後静岡県沼津市の一会社社長であった田中清一が、日本列島を縦断し国土を復興させようという夢の弾丸道路を発表したことによるといわれている。閉鎖的な伊那谷を救うにはこの田中プランしかないと、以来伊那谷のすべての勢力がこの中央自動車道の実現に集中してきたのであった。(田中氏は昭和29年12月会地(現阿智村)公民館において中央道田中プランの講演をした)」


 この記事を見ると、当時は弾丸道路というように、東京と名古屋、あるいは大阪を直線で結ぶ道路であったに違いない。前述した地図の年代は、昭和27年から31年のものである。ちょうどそのころの地図なのだ。そして、この図とは別に、もう1枚、「第四案 精進中津川間縦断面図」という図があった。そこに「昭和29年9月23日調製」とある。さらに「財団法人 田中研究所」とあったのだ。「阿智村誌」にある田中清一氏の話と一致するわけだ。何回も開いてみてはしまっていた地図が、中央自動車道の計画案だったのだとわかった。

 わたしはこの地図と『阿智村誌』を見ているたけで、他の資料には目を通していないので、あくまで想像ではあるが、こう考えた。実は名古屋東京間の地図を広げて見るとわかるが、八王子から山梨に入った中央自動車道は、大月から河口湖まで富士吉田線が分岐している。この河口湖と中津川を結ぶと、まさしく天竜峡や、木沢を通るルートが想定される。昔から富士吉田線は富士山への観光客のために造られた道路なんだと思っていたが、実はこの精進中津川を結ぶための道路だったのではないだろうか。経済効果を考えて中央自動車道は甲府や諏訪へ迂回することになったが、もともとはまさしく弾丸ルートが想定されていたわけだ。

 精進中津川間の縦断図は、八王子からの距離78kmポストから、中津川の208.4kmポストまで130.4kmを示している。精進湖標高910mから富士川210mへ下り、易老嶽近くの1132.5mまで上り、伊那谷に入っている。その図によれば、現在の恵那山トンネルより長い易老嶽トンネル8.15kmが描かれている(図では易老嶽トンネルが最長だが、現実に造られた恵那山トンネルは8.489kmあるので図に描かれた易老嶽トンネルよりは長い)。

 この縦断図は手書きではなく、印刷されたものである。4案と書かれていることから、地図のどのルートにあたるだろうかと、経由地点を地図上で追って行くと、青色鉛筆で描かれているルートである。実はこの4案のルートの飯田市山本竹佐から天竜峡へ通じるラインは、現在建設されている三遠南信道の山本ジャンクションと天竜峡インターのルートとまったく同じである。写真はその縦断図の長野県と静岡県境のあたりのものである。実際の背景は紺色であるが見やすいようにモノクロに変換した。左側が東京方面、右側が名古屋方面てある。左端に大井川畑薙ダムが描かれ、真ん中左よりに県境ラインが引かれている。その上に長大トンネルの易老嶽トンネルが表示されている。右側へどんどん下っていき、北又渡、須沢と遠山川沿いに下り、遠山谷最下点の上島へ至る。最高点の1132.5mは、現在の国内高速道路最高点とされている、中央自動車道富士見町付近の1015mより100m以上高い。図を眺めているだけで夢の世界が広がる。

 夢の弾丸道路が現実味を帯びていたころが見える資料であった。



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