Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

ハマショイ

2006-09-06 08:10:31 | 民俗学
 雑誌『伊那』(伊那史学会)の最新号940号の口絵に、長倉隆行氏が「天竜川通船のハマショイ」を寄せている。長倉氏は八十二文化財団の雑誌『地域文化』の編集を担当されている。そんな編集の中で天竜川流域の調査をしていてハマショイをされた方に聞取りされたようだ。旧佐久間町中部に在住する99歳の女性から、ハマショイとして働いた際のことを聞いている。

 実はこのハマショイという言葉は、長野県の民俗関係の報告をみてもなかなか出てこない。今でこそ天竜川には佐久間ダムをはじめ、平岡や泰阜といったダムができてしまい、昔の通船について語る人も少ない。しかし、川を利用した物資の運搬は、かつては重要な地位を占めていたことは確かで、そんな暮らしから生まれた地域文化というものもあったに違いない。

 ハマショイについて長倉氏の記事から要約するとこうだ。船着場に着いた船の荷を背負って町なかの問屋まで届け、駄賃を稼ぐ。米やカマスに入れた肥料、あるいは節句の人形なども背負ったという。こうしたハマショイを女性がしたようで、女の小遣い稼ぎだったようである。この聞き取りをした女性は20代のころによく出たといい、ハマショイを専門にやっていた人が仕事の割り振りをしていたという。船着場から問屋まで運んで4銭か5銭ほどで、店屋や個人の小売まで背負うものを「つぼ荷」といって少し割が良かったようだ。問屋なら仲介だし、店なら直接渡しだから、その分良いのは当然かもしれないが、きっとそういう仕事はなかなかもらえなかったのだろう。船着場のことを「浜」といったことからハマショイになったという。

 さて、『長野県史 民俗編』から荷運び業の項を参照してみよう。南信地方資料編からハマショイと同じような駄賃稼ぎの事例をあげてみる。

 1.ショイコサと呼ばれて大草から大鹿村に食料を運搬する人がいた。ダチソトリとも呼んだ。(M35-大草)
 2.ショイコサと呼ばれる人がいた。(柳平、吉岡、浅野、和合、売木、十原)
 3.ショイコ、ショイコサ、モチコなどと呼ばれる人がいて帆かけ船から酒などを運んだ。また、平岡から太田の間の荷運びをしたが、アシセンは先払いであった。(坂部)
 4.ショイコヤサと呼ばれる人がいた。(S20-伊那小沢)

 というようなもので、直接ハマショイに近いものとしては、3.に紹介した帆掛け舟からものを運んだ人たちだろうか。単に荷運び業とはいっても、山にモノを運ぶ人もいるが、ハマショイのように川から荷を必要としている問屋や店へ運ぶ人たちとでは、その重さが異なるのだろう。船着場に荷が届いても、そこから問屋まで運ぶ人たちが、別にいたということが新鮮である。ようは、かつての暮らしでは、オールラウンドにすべてを請け負う業はあまりなかったのだろう。持ちやは持ちやというように、それぞれ専門に働く人たちが分化していた。ようは小遣い稼ぎ程度でも、生活の足しになるように人々の暮らしは複雑にまんべんなく銭がまわっていたようにも思う。ハマショイに限らず、こうした狭い範囲の運搬業、あるいは細かい部分の作業を請け負う人たちがたくさんいたことを知る。

 天竜川を通じた交易がなくなるのは、ダムにも起因するが、鉄道の開通が大きい。鉄道が開通すると、その鉄道を利用して商いの荷を運ぶ、いわゆる行商の女性も下流から伊那の谷にやってきたようだ。そんな女性を扱ったテレビ番組を以前見た覚えもある。そうした商いも、今ではなくなっているのかもしれない。時代ごとに人々が知恵を使って稼いでいたことに、あらためて教えられるものがある。

 なお、『地域文化』のページにハマショイの記事が掲載されている。参考までに。

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