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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

伊那路の旅「飯田」

2006-09-03 13:38:13 | 歴史から学ぶ
 「消えた村をもう一度」や「小海線の旅」など古いパンフレットであちこちを紹介している。ここでまたひとつ、「伊那路の旅「飯田」」を紹介する。他のパンフレット同様、昭和50年代のパンフレットで、正確な年代はわからない。わたしが高校のころのものだろうから昭和50年代に入ったころのもので、中央自動車道が開通して数年たったころのものと思う。表紙にある写真は、現在飯田市松尾久井の民家の門として移築されている門で、旧飯田城二の丸入り口にあった八間門といわれる門である。明治4年に移築されたものという。旧飯田城の建築物は明治維新後にほとんどが取り壊された。その中で現存しているものは四棟のみといわれ、そのひとつがこの門である。ほかに長野県の出先機関にあたる、飯田合同庁舎の脇にある赤門がよく知られている。八間門とは門の幅が八間であることに由来するが、移築された門は五間である。移築の際に小さくされたのか、それとももともと八間あったのかは定かではない。現存する飯田城の遺構としてはもっとも古いもので、文禄年間に建築されたものという。

 実はこのパンフレットでは表紙になっている八間門ではあるが、これが飯田市松尾にあるとか、旧飯田城の遺構の八間門であるということは、パンフレットのどこを見ても書かれていない。かろうじて、「みどころガイド・郊外」というページの「鳩ケ嶺八幡宮」の項に「この近くには飯田城の八間門を移した木下家の門、さらには本棟造りの森本家がある」と触れているが、表紙の写真との関連は書かれていない。同じ見開きのページに飯田市郊外のイラストマップがあるが、そのマップにも鳩ケ嶺八幡は表示されているが八間門は表示されていない。表紙の写真に使っているくらいなのだから、キャプションはもちろん、位置図くらいは記載してほしかったものである。

 A5版で32ページ立てのもので、今までにも紹介した「小海線の旅」などと同様立派な冊子である。表紙の目次には「小京都・飯田をたずねて」「飯田の歴史」「飯田・なつかしき人々」「手づくり」「みどころガイド」「交通ご案内・おみやげと味」「飯田の祭りと行事」とある。交通案内にもあるのだが、「中央自動車道で名古屋から90分」と恵那山トンネルの開通を写真入で紹介している。当時としては世界第2位の長大トンネルだった。

 表紙の八間門について紹介されていないと述べたが、実はパンフレットの中に使われている写真に対してのコメントは、八間門同様に少ない、あるいはないものがある。「小京都・飯田をたずねて」の最後に殿岡双体道祖神の写真が一面に紹介されているが、ただ「殿岡双体道祖神」とあるだけでほかには何も説明はない。八間門同様にイラストマップにも記載されていないから、どこにあるかもよそ者には何もわからない。イメージとしてつかんで欲しい程度のものて、これをもとに訪れるというには心もとないものなのだ。

 そうしたパンフレットの不親切さはともかく、パンフレットをみるかぎり飯田というところには多様な、また観光資源が多いことに気がつく。にもかかわらず、当時としては観光長野の範疇ではとても肩身の狭いもので、信州を特集したパンフレットに、伊那谷はもちろん、飯田について割かれるページは極端に少なかった。その印象はわたしのなかでは今でも変わらない。

 さて、殿岡の道祖神は当時何度か訪れた。飯田インターからすぐ近くにある平澤家の庭にある。「お役者双体道祖神」などといわれているほど像容は見事なものだ。宗十郎頭巾をかぶった男神、お高祖頭巾をかぶった女神、そんな姿からそう呼ばれるようになった。写真は昭和61年3月21日に撮影したものである。当時の平澤家には門扉がなかったが、今は門扉が設置されていて、お願いしないと見ることはできない。参考に『モノクロの彩り』に飯田の道祖神を紹介している。


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