Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

時代は再び

2006-09-05 08:10:35 | ひとから学ぶ
 小泉政権もまもなく幕を閉じる。いや、すでに閉じているのかもしれない。田中康夫県政が終わることがわかった途端に、重要課題であった浅川ダムや高校再編という課題は、いきなり次期県政へ決着は先送りされた。一刻を争うような重要課題であっても、政権が変わるとなればこんなものなのだ。同じような経験を、異動の際の引継ぎに垣間見ることがある。人によっては異動が決まったと同時に、自らの仕事を放り出して、次期担当者に任してしまう。周りでは必死に年度末の処理に明け暮れているというのに、既に心は異動先に、あるいは挨拶まわりなどという生産性のないことに精を出す。どこの世界も似たかよったかである。同様に国政も小泉が辞める現実がわかり、次期政権は誰になるのだろう、というころから既に虚しさが漂っていた。これも同じことなのだが、会社の先行きがないといって希望退職を募った際に、大勢の希望者があった年があった。もちろん高齢の方々に手を上げる人が多かったから、会社の要職の方たちもいた。わたしの部署長も当時手を上げたのだが、まだ半年先まで彼らはこの会社で働くという段階でだ(9月末申し込みだったため)。そんな要職についている人たちが、すでにたくさん辞めるとわかっているのなら、その時点で次年度以降の体制のために、管理職を交代させるくらいの行動をとればよいのに、そんなことを言う者など1人もいなかった。それからの半年は、虚しいものだった。

 さて、次期首相といわれる安部官房長官。候補者3人の言葉を聞いても、阿部氏の言葉はなかなか違和感が多い。にもかかわらず政治家も国民も、この人をおいて他に首相はいない、といわれるほどの人気である。いったいこれは何なのだろう。ボッケニャンドリ家のブログにもあったが、政策ではなくルックスで首相が決まるのなら、いっそみんな整形をして同じ顔にしたらどうか、という案があった。冗談にしろ、世の中が人ではなく、カリスマ性とか、格好で人を選ぶようになってしまってまたまた虚しいばかりだ。能力低下で、その程度でしかモノを判断できなくなったのか、と思ってしまう。

 友人は最近盛んに「夏の終わり終戦の終わり」といって、時代が変わることを示唆している。教育基本法や防衛庁昇格を最優先にしていくと言っている次期首相。小泉もなかなかだったが、これは大変な自民党が始まる。次期首相の周りにいる人たちをみていると、どうみても戦争再来を思わせる人たちだ。公明党はそれでも何も言わない。おそらくこの路線にはそぐわない自民党議員も多いのだろうに、この流れは何なのか。知人のブログに「醜い面は伝えられず、思い出はいつしか美しくなってしまう」という言葉がある。これもまた例えだが、良い思い出より悪い思い出をよく覚えている。悪いと認識しているうちは「悪い思い出」なのだろうが、上昇気運になると、悪いものが「良い思い出」になってしまうことがある。語り口というのはそんなものだ。どんなに小さくても、誇大していく、そんなときにも同じような経験をする。人の気持ちとしては理解はできるのだが、基本にしっかりとした知識を持ち合わせていればよいが、風潮に流されたとしたら、どうだろう。今の日本はそんな流れを持っている。どんなに報道番組が、国政を批判しようと、風向きは変わらないほど、人々は強風に煽られている。

 ぜひ参考に読んでいただきたい。
 「戦後の終わりと戦前の始まり
 「夏の驕り

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