Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

消えた村をもう一度⑧

2006-09-08 07:57:56 | 歴史から学ぶ
 今年の2月1日に福井市に編入合併した町村が美山町、清水町、越廼村の3町村である。このうち越前岬の北側にあった越廼(こしの)村は、福井県でもっとも人口の少ない村だった。合併前の2005年の国勢調査によれば、人口1629人とある。ついでに面積も15.35km2と、こちらも福井県内最小という。長野県にはこの程度の人口の村はたくさんあるが、福井では小さな村だったようである。福井県では、平成の合併で市町村数がかなり減少している。こういう自治体が少ない県をみていると、県の必要性が問われような気もする。となれば道州制も必然的なのか、と思えてくる。

 紹介するパンフレットは、昭和55年の1月に隣の越前町から送っていただいたパンフレットに紛れていたものである。越前といえばスイセンである。越前岬にスイセンが咲く場所があることは知っていたが、その場所が越前町ではなく、越廼村側であることは、あとで知った。越廼村の越前町境にある居倉というところが、その発祥地という。このパンフレットには、越前スイセンの伝説が書かれている。それによると、次のようだ。

 平安時代末、居倉浦に山本五郎左エ門という長者がいた。五郎左エ門には2人の息子がいて、その2人が居倉浦で遭難した娘をめぐって争うようになった。やがて2人は決闘することを決めたのだが、「ふたりの仲を悪くしたのはわたしが原因」と、娘は荒れ狂う海に身を投げてしまったという。翌年の春、刀上海岸に見たこともない美しい花が流れ着き、人々は美しかったあの娘の化身だろうと、その花を海岸の丘の上に植えた。

 以上が、越前スイセンの発祥だという。

 スイセンはもともと日本の在来のものではない。地中海地域の原産で、中国を経て渡来したものと考えられている。伝来ルートについては、中国からの渡来説とは別に、暖流による漂流説もあるが、定かではないという。我国の暖かい海岸地帯には野生スイセンが多くみられ、太平洋側では千葉房州、南伊豆、淡路島、四国の足摺岬付近、九州では長崎及び鹿児島県の島々に多く、日本海側では対馬暖流の影響を受ける山口県の北部から能登半島にかけての海岸地帯に多い。そのうち、越前海岸と、房州(千葉県)、淡路島(兵庫県)が三大産地といわれている。

 さて、このスイセン見たさに越前海岸を訪れたのは、平成2年ころである。ちょうどスイセンが咲いている時期に訪れはしたものの、冬場で海も荒れる時期ということで観光客は少なかったことを覚えている。スイセンを出荷する形で産業化してきてはいるが、なかなかそれだけでは人々を留めるところまでいたっていないのだろう。このパンフレットは、昭和50年ころに作られたものなのだろうが、この中で越廼村のことにも触れている。当時の人口は「2600人たらず・・・」と言っている。今年の合併時の人口が1600人余だから、パンフレット当時にくらべれば約1000人減少しているわけだ。

 隣接している越前町もなくなってしまったのかと見たら、こちらは健在である。 越廼村が合併した1年前の2月1日に、従来の越前町に織田町、朝日町、宮崎村の4町村が新たに合併して新越前町が誕生している。「越前」という名称はブランドとして生きているのだろう、4町村が対等合併しても〝越前〟という地域名は、他の町村の住民にも受け入れられたわけだ。ところが、この越前町の山側に、今は越前市なるものもできている。こちらは武生市と今立郡今立町が合併して誕生した。武生市でよいのに、わざわざ「越前」を冠したかったわけだ。しかし、同じ名前の市町が、それも隣接してあるというのも紛らわしいものだ。

 以上は「越前」の余談であったが、合併後の越廼村内の住居表示には、「越廼」という名称はつかない。今回の合併には、そんなことがよくある。かつての町村名がまったく消えてしまうというのも寂しい限りだ。合併時に作り出された地名は、さらに合併する際には消えてしまうということは覚悟しておかなくてはならないということだ。


 消えた村をもう一度⑦
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