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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

消えた村をもう一度⑦

2006-08-27 07:57:07 | 歴史から学ぶ
 昭和60年代に楢川村役場から送っていただいたパンフレットである。「これより木曽路」の碑から最初の宿が贄川である。続く奈良井宿まで旧楢川村になる。木曽路とはいえ、鳥居トンネルより北に位置することから、水は奈良井川、犀川、千曲川と流れ下り、日本海側に流れる。そんな立地からだろう、塩尻市に編入という形で合併された。人口約3500人の村は、平成17年4月1日に幕を閉じた。木曽路というイメージからはずれてしまったような感じだ。近ごろ開通した伊那と木曽を結ぶ権兵衛トンネルの木曽側はこの楢川村にあたる。したがって、トンネルは木曽と伊那を結んでいることに違いないのだが、合併してしまったから、塩尻と伊那を結んでいるということになる。

 楢川村といえば、漆器産業の盛んな村だった。我が家にも漆器の器などあって、慶事のお返しでいただいた楢川のものがけっこうある。そんな盛んな漆器産業も、だいぶ衰退していると聞く。後継者難ということも聞く。なかなか漆器産業で食べられなくなったという。先ごろの災害の折、自宅へ帰る際に木曽路を下って帰ったことがあった。長野県中部の岡谷や辰野といったところで災害が報道されたように、同じ中部に位置する旧楢川村でも大きな被害を被った。岡谷や辰野の災害が注目されたから、あまりこの楢川の災害は知られていないが、奈良井宿ではやはり土石流がやってきて、伝統的建造物群のある宿場町に流れ込んだようだ。塩尻から木曽を南下しながら、この旧楢川村近辺がもっとも荒れていた印象である。

 さてパンフレットは盛んに長野県が「さわやか信州」でイメージアップしていた時代のものである。贄川宿、漆器のまち平沢、奈良井宿という村の三つの主要観光地を紹介している。

 奈良井宿も贄川宿も通過することはあってもそこを目的に行くことはあまりなかった。そんななかで贄川宿にある麻衣廼神社の祭礼を訪れたのは、平成2年の5月20日であった。現在は5月の第3日曜日が祭礼にあたるが、かつては20日が本祭りの日だった。祭りは勇進社といわれる青年の集団が中心的に担う。ここでは獅子屋台が巡行する。囃子屋台全体に幌を被せて練る獅子は、飯田市下伊那地域から上伊那あたりまでに分布する獅子舞とよく似ている。いわゆる練り獅子系のものではあるが、巡行しながらそれぞれの家で悪魔払いをする所作もあり、中信によく見られる太神楽系の獅子舞の姿も見せる。



 写真は平成2年に訪れた際のものである。

 消えた村をもう一度⑥

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