Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

消えた村をもう一度⑨

2006-09-18 10:56:20 | 歴史から学ぶ
 平成17年3月31日新生豊後高田市に合併した旧真玉町は、旧豊後高田市の東隣にあった町である。さらに東隣にあった香々地町とともに新生豊後高田市を構成する。国東半島という名はよく知られているが、どこから国東地域になるのかは、あまり遠くの地にいる者にはよくわからない。もちろん半島に飛び出た地域はその地域とは解るが、根本のあたりはどこから、と聞かれてもよくわからない。昭和58年に真玉町から送ってもったパンフレットに、「宇佐・国東半島」というものがある。この地域の広域的なパンフレットで、それには宇佐市から院内町、安心院町あたりから半島にかけての案内がされている。文化圏というと国東と宇佐は一帯という印象もあるから、観光では宇佐地域も含めた取り組みがされていたようだ。

 真玉町の人口約4千人。新生豊後高田市は2万6千人で、合併してもけして大きな市ではない。国東半島がいかに過疎化の進んでいる地域かということもわかるが、それだけにわたしには魅力を感じる。

 国東半島といえば仁聞菩薩が養老2年(718)に国東の谷や峰を巡遊して、多くの寺院を建立したと伝えている。この地域が六郷満山といわれる所以は、この際に建てられた六郷山寺院に由来する。そんな国東半島には多くの石造物が残る。とくに国東半島を含めた北九州地域に多い磨崖仏や、石造仁王は独特なものである。そんな国東半島を、一度は訪れたい、というのが念願だった。

 パンフレットは変形版の12ページ立てである。「仏跡と出湯」とあるように、町内の寺院と国東半島唯一の温泉を紹介している。当時の温泉施設は真玉荘といい、総合集会所と老人憩の家が併設されていた。名前からは観光目的の温泉施設という印象は薄い。実は昨年の2月、念願の国東半島を訪れた際にこの温泉施設に宿泊した。今は改修されて観光目的に変わったのだろうか、名をスパランド真玉という。国東半島という知名度の割には、半島には宿泊施設が少ない。近隣には別府温泉や湯布院があったりと、一般観光客にはそちらの方が好みなのだろう。それだけにこうした宿泊施設もなかなか空いていない。宿泊施設の空きにあわせて目的地を変えたほどである。


 真玉町では福真磨崖仏と応暦寺裏山の堂の迫磨崖仏、そして清臺寺などの石造仁王を訪れた。写真は堂の迫磨崖仏である。大岩屋にある応暦寺の本堂の左横から奥の院へ通ずる山道の崖の上に、横に細長い3つの龕が彫られ、左から六観音・十王像・六地蔵・施主夫婦像・倶生神(司録像)を半肉彫りしている。像高50センチほどの磨崖仏で、室町時代の作品だという。堂の迫磨崖仏からそれほど遠くないところにある福真磨崖仏も同じ室町時代の作というが、こちらはなかなかわかりにくい場所にある。加えて暗がりにあってさらに覆い屋根があったりと、なかなかうまい写真は撮れなかった。



消えた村をもう一度⑧
コメント


**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****