Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

無責任な世界

2006-09-25 06:30:25 | ひとから学ぶ
 災害が出て仕事柄忙しくはなった。だからよその部署の応援といって仕事を手伝ったり、内部でもほかの人たちと仕事を調整したりしているが、なかなか仕事が回っていないのが現状だ。人に手伝ってもらうように段取りをしていると、それだけで時間が過ぎてしまう。そんなことなら自分でやった方が早い、なんて思ったりするのだが、それでは暇な人たちは忙しい中でも暇なままだ。このごろは率先して仕事をやろうという意識が少ない。当たり前のことで、いつなくなるともわからないような会社であっては、率先して苦労などするはずもない。だから、人にやってもらおうと思うと段取りが面倒くさいし、やってもらえば「人の仕事だから」とまったく責任感を持ってくれない。それを悪く言えば、それまでだ。会話もなくなる。どうしてみんなこんなに自分のことしか考えなくなったのだろう。

 まるで子どもたちの世界と同じである。

 息子が世話になっている先生の講演を、妻は聞きに行った。子どもたちがいかに自分たちで行動するか、という時に、親が手を出すことを辞めるべきだと説く。わたしも含めて、このごろの子どもたちを取り巻く親たちは、自ら子どもと関わりながら楽しもうというところが多い。ちょっと考えれば放任であった昔とくらべれば、親はずいぶんと子どもたちと接している。にもかかわらず、子どもたちは荒れるし、親からは遠い。地域での活動といえば、子どもたちを介しているものも多い。育成会といえば、大人がお膳立てして行事が行なわれる。公民館活動もそうだ、PTA活動もそうだ。どんなときも子どもたちは親の設営した舞台で動いているだけだ。自ら行動しないから、統一した行動もできない。それぞれが相手を思うこともないし、周りを見ようともしない。

 わたしが地域のPTAの役員をした際、あまりに子どもたちに主導権がないのに驚いた。子どもたちの行事なのに、子どもたちにも年長がいて頭がいるのに、親たちが挨拶して親たちが子どもたちを動かし親たちが片付けをしていた。これでよいの・・・と思っても周りの大人たちがそうなのだから、わたしが1人何を言おうとどうにもならない。子どもたちがどう思っているか、などということはどうでもよいのだ。大人の考えがそこには反映されている。そんなことを繰り返しているから、子どもたちは常に自分たちで考えて行動しない。子どもたちの頭も形ばかりで、誰も行動の先頭に立とうとはしない。疑問にも思っても一年は流れた。

 講演を聞きに行った妻は、先生のこんな話を印象的に語った。かつて先生が子どもだったころ、野球を盛んにやった。その後そんな盛り上がりから、地域の指導者に指導を乞うようになった。それが子どもたちの社会の終焉たったという。それまでは子どもたちだけで工夫していたものが、「指導者」という大人が交わることで、子どもたちが自ら動こうとしなくなったと言うのだ。先生は、育成会に関わった際、大人たちは行事に出てくるなと言ったという。しかし、親たちからは一緒に楽しみたいという意見が強かったというが、聞き入れなかった。

 より以上のことをしよう、とか、自分たちで物事を考えようという気持ちが子どもたちに限らず、大人にもなくなりつつある。だからこそ子どもたちにとって何が必要なのかも見えてこない。無責任な社会を形成する素地がそこにはあるように思う。
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